●京都で狩野永徳展がはじまったけど、観に行けるかどうかは(主に経済的な理由によって)微妙だ。一昨年、京都に行った時に立ち寄った京都国立博物館はいい感じにさびれていて、人もそんなに多くはなくて、ゆっくりと展示物を観ることが出来たのだが、狩野永徳となるときっとすごい人なのだろう。
一昨年、京都に行ったのは11月のはじめ頃で、京大の大学祭に呼ばれて小説家の星野智幸さんと中上健次について話すためだったので、いまごろの時期は、中上健次の小説を集中して読んでいた。その時思ったのは、中上健次の小説で重要なのは、父や母や兄であるよりむしろ、姉たちと(腹違いの)妹の方ではないかということだった。父や母や兄との物語を起動させるためには、姉という媒介が必要となる。中上健次が中上健次になった瞬間が刻まれているといえる「蝸牛」でも、物語は姉がいなければ発動しない。それと、腹違いの妹の、べったりとまとわりつくような気持ち悪いとさえ言える感触が、その小説世界に独自の表情を生んでいた。(秋幸は、母親を含む女性の近親者に徹底して甘やかされており、その愛情空間のどろっとした濃度は、ちょっと他の作家の小説では感じられないくらいに濃厚なものだ。そしてそれは、母との関係よりも、姉や妹という距離でこそ、より生々しい。)そんなことを思い出したのは、最近あった、新興宗教の施設内での集団のつるし上げで女性が殺されてしまったという事件の報道をみて、中上健次の小説(特に『地の果て、至上の時』)を連想したからだ。