●ときどき、自分を信用できなくなることがある。手紙を出そうとして、相手方の住所を書いて、裏返して自分の住所を書こうとした時、自分の住んでいるところの番地が出てこなかった。いや、出てこなかったのは一瞬で、すぐに出てはきたのだが、それがどうしても間違っているような気がするのだ。どこかが「違うっぽく」感じられる。
ヒゲを剃るために洗面器にお湯を張って、カミソリを取ろうとしたら、置いてあるはずの場所になかった。カミソリなんて、いつもの場所以外に動かすことなどありえないのに、と思いつつ、それでもいくつか思い当たるところを探した。見つからずに、戻ってみると、お湯を張った洗面器のなかにカミソリがあった。
●分かろうとしたとたんに、台無しになってしまう。そういうことは普通にある。それは、得られた答えが間違っているということでも、答えを得るためのプロセスや方法が間違っているということでもない。分かろうとすることそのものがもつ問題なのだ。分かろうとするかぎり、それを「する」ことは出来ない。そんな何かが確実にある。そのことはきっと誰でも知っている。これは、逆説でもなければ神秘主義でもない。「分かる(知る)」ということの機能が呼び寄せてしまう、本質的な誤謬というものがあるのだ。とはいえ、ぼくがいま書いているような書き方をする限り、どうしても逆説を弄しているということになってしまう。つまり正確に言えてないのだ。
だが、以下の引用は、たぶんそういうことをちゃんと言えて(分節して)いる。『臨床するオートポイエーシス』(河本英夫)より。
≪知るという働きはそれじたいで単独で成立する働きなのだろうか。あるいは知ることは、他の働きが知ることへと従属するような何か特権的な働きなのだろうか。かりに知るということが、同時に別の働きを伴い、それらが知るということと並ぶ重要な働きをしているのだとしたら、知るというかたちで取り出したものが一面的な誤解になってしまう可能性がある。いまかりに知るということが、同時に一つの行為だとしたら、知ることはまさにその知るという働きが全面に出ることによって、みずからの行為としての側面を覆い隠してしまうという事態が生じる。≫
≪いま移動しながら物の認識を行っている場面を考えてみる。この場合の認識は、多くの場合、感覚・知覚である。物を知ることは、多くの場合、移動のためのさまざまな手掛かりを得るために活用されている。うまく移動できるためには、環境内の物について多くの指標や情報を手にするはずである。このとき世界内の場所移動のために、認知を活用するのである。この場合、認知とは世界と自己とのかかわりを組織化することの手掛かりであり、その一部を意識が担っている。だが意識の知る働きが前景化すれば、感覚や運動やさまざまな感触は、まさに知るという働きの付帯的な必要条件のように、物知覚の裾野に組み込まれていく。この結果まったく起きてもいないことが詳細に語られてしまう。つまり場所移動は、物知覚の付帯的周辺条件の一つに追いやられてしまう。これは意識の知るという働きが前景化することによって、おのずと起こることであり、意識の自然な誤解である。≫