●科学の発展によって、人間は人間自身のことをあまりにもいろいろと分かり過ぎるようになっている。しかしその、「分かり過ぎてしまう」という事実に対してどのように対処すればいいのかということは、誰もあんまり分かっていない。一昨日いろんな人の話を聞いていて思った。
そしてさらに、人類としては様々なことが「分かっている」からと言って、個々の「わたし」、それぞれの「わたし」たちは、そのすべてを知ることができるほど頭もよくないし、それをすんなり受け入れられるほど心もひろくないし、そもそも生活に追われていて知ろうとする余裕もない(専門家だって自分の専門のことしか分からないだろうし、現在では、ゼネラリストであるためには病気になるくらい頭が良い必要があると思う)。
科学的な認識や工学的な技術は劇的に変化するが、常識はゆるやかにしか変化しない。そのことが人の心や社会が一定の安定性を確保するために役立っている。だから常識は、段取り抜きに性急に、むやみにかえるべきではないと思う。常識は正しさとは別の位相で機能しているのだから。やたらと声高に変革を口にする人は、たんに自分が目立ちたいとか、権力が欲しいだけか、あるいは現状が気に入らないと駄々をこねているだけだろうと思う。
ある人が何かを知っているとしても、別の知らない何かが盲点であるかもしれない。そしてそれはみんなお互い様だ。「わたしはだいたいのところはみんな知っている」という人は、きっと嘘つきかバカだと思う。
とはいえ、科学的な認識や技術的な現状と(一人一人の人にとっての、という意味まで含めた)「常識」とのギャップが、あまりに大きくなるのも危険だし、それを放置しておくときっとひどいことが起こる(そのギャップは今日、恐ろしいまでにひろがっている気がする)。そのギャップをどのように緩め、緩衝し、衝撃を逃がし、調整することができるのか。そのための行為はとても大変でめんどくさくてひたすら消耗するものだろうと思う。政治の問題は、ほとんどそのひたすらに気が重くなるような大変さの実践にしかないように思う。