中上健次『地の果て 至上の時』の3章、4章を読んだ

中上健次『地の果て 至上の時』の3章、4章を読んだ。前半の圧倒的な「大きさ」に対して、後半はテンションが落ちると、どうしても感じられてしまう。特に、3章の終わりころから4章はじめにかけては、かなり「退屈」に感じられて、読むのが滞るくらいだ。その理由の一つに、展開の単調さというのがあるように思う。秋幸がぶらっと出かけ、偶然誰かと会い、何かを話す。あるいは、ぶらっと出かけた秋幸が、偶然誰かと会い、その誰かと別の誰かに会いに行く、というような展開ばかりが単調に反復されるという印象。場面の繋ぎ方、あるいは、場面の切り方(終わらせ方)なども、リズムが乱れている感じで、とても読みづらい。
●この小説の一般的な評価としては、龍造が自死することで「父殺し」が不可能となり、物語が失調する、というようなものであると思うが、今回改めて読み返した印象では、中上健次にとって真の問題(謎)は「父」ではなくてあくまで「兄」なのだなあ、ということだった。龍造の自殺は、少しも「父」という機能の失調にはならず、むしろそれを「謎」として生き延びさせるように感じられる。(フロイトの『トーテムとタブー』に依るとするなら、父という機能は、父の死によって完成する。)もし、父の機能の失調を示すならば、構造(資本)の手先でしかない「小さな人物」として、龍造や佐倉を生き延びさせることによってではないだろうか。秋幸の前で死んでみせる龍造は、あまりに立派に劇的でありすぎるように思われる。
(『奇蹟』では、トモノオジが、過剰な意味という病に憑かれた空っぽな人物として秋幸の代理としており、オリュウノオバが、語りを支え世界を立体化する人物としてモンの代理としており、この二人が、『地の果て 至上の時』で、兄の死の代理として行われた龍造=父の自死を、あらためて、兄=イクオの死として語り直すのだ、と、無理矢理解釈することも出来る。)
●この小説において、ヨシ兄が龍造のネガだとしたら、鉄男は秋幸のネガであるような重要な人物であると思うのだが、鉄男という人物の、あまりの薄っぺらさ、リアリティのなさが、この小説の致命的な欠点となってしまっているように思える。中上健次は、路地の若い衆のようにはホモソーシャル的でない人物、共同体的なものから切れた若者を描くことにが、基本的に出来ない作家であるように思う。『地の果て 至上の時』において、女達(美恵、さと子、ユキ、モン、その他、オバたち)のつくりだす想像的な世界(ざわめく無数の物語)の豊かさに比べ、(とりあえず、秋幸、龍造、ヨシ兄は除くとして)男達の世界のあまりの貧しさが挙げられるように思う。(良一、若い衆、友一、文昭などは、立場=立ち位置の違い以上には描き分けられていないように思う。)中上健次にとって、男は、私と、父(兄)と、朋輩(あるいは目上の者、目下の者)くらいの区別しかなく(つまり象徴的な位置しかもたず)、だから鉄男のような、異質な、何かしらの内面的なもの隠しもったような孤立した人物は上手く描けないのではないだろうか。(徹のような、半ば共同体の秩序の内部にいながら、そこからややズレてしまうような人物なら、描けるのだと思う。つまりそれは「物語(遠近法)」の内部にいる=「たんなる他者」ではない、から。あるいは、ある程度重要な人物である「若い衆」が、最後までたんに「若い衆」でしかなく、名前が与えられないこととかも、それを示している。)この小説は三人称で書かれているが、焦点化されるのは秋幸とモンの二人だけ(しかし、作中で二度くらい、龍造の内面が直接語られてしまうように読めるシーンがあるのだけど)なのだが、後半、やや展開が単調になってゆくなかで、モンの視点で描かれるシーンが増えるのは、救いであるように感じられる。
●確かに、秋幸は、がらんどうなものとしての「大きさ(大きな容量)」を持ち、繊細な染まりやすさと同時に、環境に同化してしまうことを拒む激しい衝動(つまりこれが、意味であり内面であろう)をもつ人物ではあるが、基本的には甘ったれたボンボンであることにはかわりない。そのことを、過剰な「劇化」によって隠すべきではないと思う。そのような意味で、ラストのあまりに颯爽とした見事な姿の消し方はどうかと思う。ぼくは(物語の結末をすっかり忘れていたこともあり)、前半の流れからつづけて読みつつ、秋幸は、その過剰な衝動を押さえつつも、龍造の残した浜村木材を継ぐものだとばかり思っていた。龍造が、自らの死を秋幸に向かって(謎のように)見せつけ、示すことと、秋幸が颯爽と姿を消してしまうこと、というこの二つの劇的で見事ともいえる決着の付け方が、ぼくには納得しがたいものだった。前半、あれだけ豊かに、過剰に、圧倒的な力をもってざわめき擦れ合っていた無数の物語の響きが、後半、物語は、真実(謎)とその無数の解釈という感じで整理され、さらに、父と息子(私と兄)の物語へと収斂されてしまったということを、この二つの過剰に劇化された結末が象徴してしまっているように感じられた。
●ぼくが『地の果て 至上の時』を読んでいて最も生々しく感じられた人物は、なんといっても秋幸の異母妹のさと子だった。さと子という人物の、一見大柄で粗野な外見にも関わらず、ねっとりと絡みつくじっとりした感じは、(例えば鉄男という人物の薄っぺらさに比べ)とてもリアルに気持ちが悪い。前半、水の信心に過剰にハマり込むさと子は、後半、兄やん(秋幸)に妙にねっとりと絡みつき、秋幸もそれを半ば以上受け入れている。ここであらわれる近親相姦的な雰囲気は、『岬』における「父」に対するものとしてのそれとは異なり、何とも生々しく湿った感触を生んでいる。ぼくはこの感触にこそ、中上健次という作家の官能的な特異性だと感じる。