●電車に乗ったら冷房が効いていた。
空いている車内から、座席、窓枠、窓の外(そして窓から座席に射す光)が同時にフレームに入った写真を撮ってみる。ちょうど高架の上を走っている区間で、窓の外は、ギラギラ光る低い住宅の屋根ばかりがつづき、青い空が三分の二以上の面積を占めている。
●書評のための本を読む。まだ全体の四分の三にも達していない。ぼくは、精密に構築された長大なフィクションというのがあまり得意ではない。しかも、第二次世界大戦下の日本海軍を題材としていて、題材の次元でも得意ではない。良いとか悪いとか以前に、それを読む自分が、その作品とどう関係したらよいのかよく分からなくなってしまうところがある。その「言葉づかい」に対する距離感というか、接触感の「いい案配」が、なかなか掴めない。だから、いちいちいろんなところで躓いたり、引っかかったりして、なかなか先へ進めない。これを書き終わったあとも、さらにつづきを読む予定。
●現実上の歴史的な出来事とシビアで深い緊張関係をもった物語があり、しかしその物語の内部には、フィクションの原理にのっとった比喩的(隠喩的)な場面の連鎖があり、構築性がある。歴史が常にフィクションとして書かれ、書き直されるしかない以上、フィクションこそが「(社会的、あるいは人間的な)現実」の記述を可能にするのであり、フィクションは常に現実と緊張関係のもとにあることは理解できる。人間は、フィクションを媒介とすることによってしか「現実」と触れ合えないし、動かせないし、落とし前をつけることも出来ない(落とし前-責任という概念がそもそも人間的な虚構なわけだし)。あるいは、あるフィクションと別のフィクションとの抗争的関係こそが政治であり、それこそが人間にとって何よりも「現実」であったりする。フィクションは現実ではないとしても、フィクションとフィクションとの力関係は現実なのだ。
歴史的事実(としての妥当性を保証されたもの)をフィクションの内部に取り込んだ小説作品が、あくまでフィクションの内部の原理である比喩的な(綿密な比喩的関連としての)「構築性」によって立体的に構築される時、そこでは、歴史がフィクション化されるのか、フィクションが歴史化されるのか。おそらくこの小説のやろうとしていることは、ある強大な力として作用する歴史的なフィクションを小説的な空間のなかに取り込むことで、ひとつの強大なフィクションとしてではなく、無数のフィクションの比喩的関連の複雑な絡み合い(抗争、反響、スリップ、同調、反発、増長、等々)が作用した結果として「その力」があるのだと示し、それを分析-解体することなのではないだろうか。そして、その力の作用のいくつかは、今、現在の「ここ」にも接続されている。しかしそれは、あくまで比喩としての分析-解体であり、比喩としての(いま-こことの)接続ではあるが。