●年度末になるとあちこちで道路工事がはじまるというのはよく聞く話だが、散歩している時の印象では、今年は新年度になっても相変わらずあちこちで工事をしているという感じで、通ろうと思っていた道筋から迂回させられることも多くて、これも緊急的な雇用対策の一つなのだろうか。いつも行く喫茶店に面した道路も、夜になってからかなり大規模な工事が始まっていて、ガガガガガガガという轟音とも言える音が常に響くだけでなく、ときおり、ドン、という音と共に建物が揺れるほどの振動がくる。商店が建ち並ぶ道なので営業時間終了後にはじまったと思われる工事の様子を、本から目を上げて、喫茶店の二階の窓から見下ろす。いくつも照らされた眩しい照明のもとで、よくわからない巨大な機械で、道路のアスファルトが粉々に砕かれていた。いつも来る喫茶店だが、はじめて、営業終了時間ギリギリまで居た。時間になると、それを知らせる「蛍の光」が流れるのだということを知った。
●書評する小説、なんとか最後まで辿り着いた。最後まで読んでも、昨日の段階で感じた疑問、《現実上の歴史的な出来事とシビアで深い緊張関係をもった物語》を《フィクションの内部に取り込んだ小説作品が、あくまでフィクションの内部の原理である比喩的な(綿密な比喩的関連としての)「構築性」によって立体的に構築される時、そこでは、歴史がフィクション化されるのか、フィクションが歴史化されるのか》、が、そのまま丸ごと残されるような小説だった。一見してシリアスな主題を扱っているこの小説は、しかし他方で、あきらかに「歴史」と「トンデモ科学的妄想(というより「少年倶楽部」的奇想というべきか)」とのチャンポンをほとんど不謹慎なほど薄っぺらに戯れている。そこには、そのどちらか一方には決定できない力の拮抗が常に働いている(それは、ちょっと横尾忠則の絵を想起させる感じだ)。この小説の読みどころは、おそらくその拮抗そのものにある。ただ、その結果としてなされているのは、フィクションを、その外ではたらく歴史の力へと開こうとすることなのか、それとも、歴史的に記述された事柄を、フィクションの内部に閉じこめて、その内部において処理しようとすることなのか、それは簡単にはどちらとも言えない(「終末-結論」部分がどう書かれているか、ということと、小説全体として「何がなされている」のか、というのは、また別のことだ)。
ところで、書評というのはどの程度ネタバレが許されるのだろうか。「〜殺人事件」というサブタイトルがついてはいるものの、まったくミステリ的な規則が無視されている小説ではあるが、それでもネタバレしてしまうと確実に何割かはこの小説を読む楽しみが目減りしてしまうように書かれている。とはいえ、ネタバレなしで、この小説について何か書くのは難しい。