池田雄一『カントの哲学』第二章、その他

●一昨日引用したコプチェクの「(無)限定的的世界の時代における悪」をざっと要約すると以下のようになる。
カントにおいて自由は、道徳的な規則に従うということで、つまり、石を投げ上げれば落ちてくるというような、自然の法則に支配されるのではなく、例えば「他者を手段としてだけでなく目的としても扱え」というような命令(格率)に従うことが可能である、ということが自由であるとされる。その時、命令に従うのに利己的な動機(目的)があってはいけない。例えば、「嘘をついてはいけない」という規則に従うとき、「嘘をつくと後でかえって面倒なことになるから」という理由からそれに従うのでは駄目で(つまりそのような利己的な判断は人を取り巻く環境に規定されていて、「自然法則」に従うのとかわらないので「自由」とはいえない)、何の目的も利己的な計算もなく、ただそれが善だからという理由でそれに従うのでなければならない。しかし実際には生きている人間にとってそれは可能なことではなく、つまり自由は不可能だということになる。だがここで、人は誰でも道徳的な規則を破ったときに「罪責感」をもつ、ということが「自由」の可能性をひらくとされる。つまり人は、自由でありえた(道徳的でありえた)にもかかわらず道徳的に振る舞えなかった、という罪責感によって、事後的に「自由(であり得た)」の可能性を知らされる、と。つまり道徳=自由は、否定的なものとしてのみ、その可能性が開かれる場所を得る。しかしその時、人は道徳的であればあるほど強く自分を責めることになり、決してたどり着くことのない「道徳的存在」に向けて、果てしなく自己嫌悪を募らせてゆくことになってしまう。この時、決して満足を得られることのない理性の欲求は、理性以外のものによって埋められることを欲することになってしまう。ここで「恩寵」が出てくる。《最後の審判は、急に、思いがけなく、恩寵という純粋な贈り物としてやってくる。》決して十分には道徳的でありえない人間が「あたかもそれ(道徳)をすでに所有しているかのようにして」、理性によってふいに贈り物をあたえられる。《カントは、道徳上の前進を、先行する世代が行動方針を定めて次の世代へと進む無限の漸進的進歩とは考えずに、個々の主体が、自分を支えている空想を消散させたり、心の奥底に抱く信仰から自分を解き放ったりするきっかけとなる回心と考えたのだ。》
池田雄一は『カントの哲学』の第二章で、ジシェクやジュパンチッチを挙げて丁寧に検討した上で、以上のような英語圏ラカン派の「倫理」を一種の決断主義として批判している。《このようにしてあぶりだされた倫理とは、現実的な効果をねらった「打算」もなければ、まわりのものが納得するような「理由」もない、純化された行動の倫理である。そのような行動つまりシニフィアンによって、象徴的な秩序の座標軸をかえてしまおうというのが、この倫理にあたえられた使命だ。(略)しかし、こんなに話がうまくいくはずがない。(略)いくら自爆覚悟で過激な行動にでたところで、それでシステムの座標軸がかわるどころか、その行動自身によって、システムがますます強化されてしまう...(略)》(P117)
しかしここには(おそらく意図的な)読み違えが二つある。(1)英語圏ラカン派のいう「行為(上の引用では「恩寵」)」とは、決して「自爆覚悟で過激な行動にでろ」といっているわけではない。(むしろその逆で、そのような意味での「行動」はするな、とジジェクはいっている。)それはたしかに、自らの最も大切なもの、決して捨てることの出来ないものを「捨てる」ことによって主体が自由になるというような意味を含むが、その時の「捨てることのできないもの」とは、主体が「そう思っているもの」とは常に別のものである、というのが精神分析ではないだろうか。だから人はそれを決して「意識的に(決断主義的な過激な行動によって)」捨てることは出来ない。上で引用したように、それは日々の(あくまで)「理性的」な実践のなかから、予期せぬものとして、ふいに「恩寵」としてあらわれるしかないことになっている。(2)ここで、池田氏は、9・11などを思い起こさせるような書き方をすることで、主体のシステムの問題と社会的なシステムの問題とを混同させている。「行為」が変化させる「象徴的なものの座標軸」は、あくまで主体を支えているものとしてのそれであって、社会的なシステムをそのまま指すのではない。
池田氏は、カントの「理性的存在者(道徳的存在)においては、悟性的判断がそのまま意思とイコールである」というような言葉を引き、つまりそれは、法則を知ることと、法則を行うことが同義であるということだ、として、コンピュータのプログラムや『寄生獣』などの例を挙げ、その後、それをフロイトの「行為」へと繋げるのだが、ここでの議論を読んでいて思い出したのが、『絵画の準備を!』の「メディウムと抵抗」のなかでの岡崎乾二郎の次のような発言だった。
ベンヤミンのいう神話的暴力と神的暴力の間は大きく切断されているように感じられる。けれど神的暴力というものが、ともかく「いま、ここでこれをしなくてはいけない」という現在を決断する衝迫につながるものであることはたしかです。だから神的暴力は、目的と手段が常に確定的に決定されているベンヤミンがいう意味での自然法のありかた、それも動物が従う行動原則と通底しているようにも思われる。けれど神的暴力は目的や欲望にもとづいていない点において、自然法以前にある、やはり自然そのものの性質、つまりそれが抵抗として発現した状態と捉えた方が正確な気もする。だがなお、それは「いま」これをしなくてはならない、何がなんでも「これ」をしなくてはならないという衝迫として訪れる、いわば、個人的な主観、個体的な目的をも超えた命令(order)として訪れるものであるということです。その命令(order)は、いうまでもなく既存の制度としての命令ではなく、それに先行し、むしろ既存の秩序を破壊する決定的な命令(order)としてある。
現在性というのは、そうした意味であらゆる秩序に優先するものです。そこにこそ不可逆的な時間つまり順序(order)を確定、決定する要因があるからです。》(p356)
●道徳的な判断においては、ただそれが善であるという以外の目的があってはならず、例えば利己的な目的が入り込むとそれは「自由」ではなくなってしまう。つまり人は、たとえ(自分だけでなく)多くの人がそれによって害を被るのだとしても、それが善である限り、善を行わなくてはならないことになる。道徳(自由)の目的は決して幸福にあるのではなく、道徳それ自身のなかにしかない。道徳(善)は、《個人的な主観、個体的な目的をも超えた命令(order)として訪れるもの》で、《その命令(order)は、いうまでもなく既存の制度としての命令ではなく、それに先行し、むしろ既存の秩序を破壊する決定的な命令(order)》である、と。そうだとすると、それは《目的と手段が常に確定的に決定されている(略)動物が従う行動原則と通底しているようにも思われ》るが、しかし、《目的や欲望にもとづいていない点において、自然法以前にある、やはり自然そのものの性質》というべきかもしれない、と。この時、道徳原則はほとんど「もの自体」と重なるというか、もの自体のなかにあらかじめ書き込まれたオーダーであるかのようになる。第二章での池田氏の記述も、それをなぞるように、グリーンバーグを引用し、そのモダニズム的言説のメディウム・スペシィフィックな有り様(絵画の「目的」はその外側から規定されるのではなく、絵画というメディウムそのもの内にあらかじめ埋め込まれている、というような)から、「道徳原則」という「目的」があらかじめ埋め込まれている(付着している)存在としての「人間(の身体)」という話になってゆく。しかし、グリーンバーグ的な言説では、その美は、多くの例からその平均をとるような「標準理念」にしかならなくて、本来、非経験的、非感性的なもの(否定的、事後的にしかあらわれないもの)である「道徳」の「表現」としての美(理性理念)ではない、ということになってしまう。では、その理性理念としての美、非経験的、非感性的なものであるはずの「道徳」を形あるものとして表現し得るものが、どういうものであるのかが、第二章の最後に素描されているのだと思うのだが、ここが難しくて言いたいことがよくわからない。
●もの自体は、否定的にしかあらわれない。道徳(自由)の可能性は、罪責感によって事後的にしか見出されない。このようなことがらを、肯定的に、事前の位置で語ろうとすると、理性の構成的な使用となってしまって、それは理性の適用範囲を超えてしまう。では、そのような条件のなかで何を語り得るのか、どのような倫理を行動の指針とし得るのか。『カントの哲学』の第二章では、そのようなことが探られているように読める。その果てに見出されるのが、「道徳」の表現としての美であり、美的なものの判断としての「趣味判断」ということになる。多くの例からその平均を取り出すような美の「標準理念」はいわば「規則」のようなものでしかなく、趣味判断は、そのような規則に従うのではなく、むしろ個々の場面での趣味判断こそが、そのような「規則」の正しさ(理性の諸法則)の基準となるのだ、ということが書かれる。あるいは、《美の標準的理念においては目的が内在的に埋め込まれ、理性理念においては外在的に埋め込まれている》と書かれるのだが、「外在的に埋め込まれている」とは、一体どういうことなのか。この先の話は、次の章で、ということになるのだろう。
●話は少しズレるかもしれないが、保坂和志が『カンバセイション・ピース』に書いていた、次のような言葉を思い出した。主人公が、ベイスターズが負けた試合の横浜球場からの帰り道で考えていること。
《すべてのプレーが勝った負けたに一元化されるのは、ピッチャーの投げる球の軌道がつねにたった一つで、バッターが打ち返した球の軌道もたった一つで、アウトかセーフかもストライクかボールかもつねにどちらか一方で、すべてのプレーがたった一つにしかならないからなのだが、プレーには他のおこりうる可能性を収斂させる力があり、起こりうる選択肢がプレーには厚みとしてあり、だから勝った負けたの一元化が要請され、一元化されるから起こりうる選択肢が消えるのでなくさらに厚みを増す。だから負けた試合はどんな試合でも悔しい。
あそこで中根が内角高めの釣り球にひっかからなかったらとか、東出の打球にローズの出したグラブが届いていればとかの、「たら」「れば」の問題ではなくて、球場であらわれるすべてのプレーは一つの形しかとらないからこそ、ありうるプレーが反響もするし、ありうるプレーの予感ともなる。こんなことを考えるのはきっと、個別のなかにしか総体があらわれないからで、目で見ることができるのは個別だけだけれど個別は総体がなければ形にならない。だから負けた試合はどんな試合でも悔しい。》