高橋悠治の文章が衝撃的なくらいに面白かった

●依頼された、短い『アワーミュージック』(ゴダール)のレビューを書きはじめたり(短いレビューというのは結局、長く書いてそれを編集して縮めることになるので結構大変なのだった)、中上健次の小説を読んだりした後、用事で出かけ、用事が終わった後、喫茶店で『目覚めよと人魚は歌う』(星野智幸)を半分程読んでから、帰った。喫茶店は、入った時は暑いくらいに暖房が効いていて、上着を脱いだのだが、小説を読むことに没頭していてふと気付くと、いつの間にかスースーと冷たい風が入り込んで寒いくらいで、ハナミズが垂れてくるのだった。
●トイレのなかで、なんとなく「批評空間」の第3期1号をパラパラ眺めていたら、巻末の高橋悠治の文章が衝撃的なくらいに面白かった。雑誌が出た当時にも読んでいるはずだが、その時は、あまりピンときてなかった。高橋氏は、三味線や中国武術を習った経験から、次のように書く。《身体から身体への伝承はどうするのか が/すこしずつ見えてくる/伝統をまなびながら/焦点は伝統にはない/訓練のプロセスは/手をどのようにうごかすか から出発して/手がどのようにうごいているかを感じることに向かっていく/伝統は技術の洗練に向かう歴史的な過程だが/手の訓練は 伝統を逆方向に通過して/反技術 技術がおきざりにした不確実さをみつめる》《手のあるしぐさが 伝統のなかでくりかえされ/みがかれ 型として ある意味をもつまでになると/それは かぎられたひとびとのあいだの表現になってゆく/そのしぐさの意味を理解するというのは/手をみないで 手の象徴する意味を見ること/それが文化とよばれるなら/そこには権力に似た差別のまなざしがある》《意味ではなく うごいている手そのものを見ることで/文化はのりこえられる/そこはもう権力のはたらかない場/身体から身体への直接的伝承の場だ/ロウソクからロウソクへ火を移すとき/それはおなじ炎ではなく ちがう炎でもない/そのように/身体の内側のうごきは/ためらい ゆれうごき たえず意味をうち破りながら/ちがう身体へつたえられる》《手を見るといういいかたも/ほんとうは 正確ではない/手を見れば 手にとらわれて見えなくなる/手は もはや手ではない/身体の内側をうごく風が 手を透かして見える/そのためには/手を見てはいけない/手のかたちをした 手をつつむ空間を見る/さらに 目にうつるすべてを見る》《川に秋風がたてば 遠い街に落葉が満ちる》これは全く抽象的な話などではなく、その字義どおりに読まれるべき(深読みなどされるべきではない)、きわめて具体的な話だ。《手を見れば 手にとらわれて見えなくなる/手は もはや手ではない/身体の内側をうごく風が 手を透かして見える》という部分など、こんなに具体的な話はない、というくらいのものだ。