●昨日書いていた原稿は、結局ヴァージニア・ウルフの引用部分をまるまる削ってしまった。枚数の問題もあったのだけど、原稿に書いたほとんどすべての部分の底に、引用しようと思っていたウルフのテキストが響いているので、それに、わざわざもう一度引用を重ねる必要はないと思ったからだ。
●原稿では削ってしまったウルフの引用部分を、ここに載せておく。以前この日記で、全く同じ部分を引用したこともあるのだけど、改めて。
《しかし、もちろん私の人生の記述としては、それらは誤った印象を与えやすい。なぜなら人が憶えていない事柄も同じくらい重要だからである。おそらくそれらはもっと重要なのだろう。(略)日常の日々は、存在より非存在の方をはるかに多く含んでいる。たとえば昨日、八月一八日火曜日はたまたまよい日だった。つまり平均以上に「存在」のうちに過ごされた。天気は晴れていた。私はこれらの最初のページを楽しんで書いた。頭はロジャーについて書くことの圧迫から解放された。私はマウント・ミゼリーを越え川沿いに散歩した。干潮だったほかは、いつも私が間近かに見る田園は、私の好むような色あいと影から成っていた---柳があってどれも羽毛のようで、青空を背にやわらかい緑色と紫色をしていたことを思い出す。また、チョーサーを楽しみながら読み、一冊の本---ラファイエット夫人の回想録だが---を読み始め、興味をひかれた。しかし、これらの別々の存在の瞬間は、もっとはるかに多くの非存在の瞬間の間に埋めこまれている。レナードと私が昼食のときやお茶の時間に何について話したかを、私はもう忘れてしまっている。よい日だったけれど、そのよさは一種言い表し難い綿の中に埋められているのだ。このことは、いつでもそういうふうになっている。毎日毎日の大部分は意識して生きられてはいない。人は歩いたり食べたり、ものを見たり、しなければならないことを処理したりする。こわれた真空掃除機、夕食の注文、メイベルに言いつけを書くこと、夕食の料理、製本。わるい日だったときは、非存在の割合がもっとずっと大きい。先週、私は微熱があった。ほとんど一日中が非存在だった。真の小説家はどうにかして両方の種類の存在を伝えることができるのだ。ジェイン・オースティンはできるし、トロロープもできると思う。おそらくサッカレーディケンズトルストイも。》(『存在の瞬間』)