⚫︎刊行だいたい一年記念(2)、小説集『セザンヌの犬』所収の「ライオンと無限ホチキス」より抜粋。
あなたたちがいなくなって何年になるだろう。あの日、ギャラリーのスタッフは鈴がちりんと鳴るのを聞かなかった。あの黒い台は、その滑らかな表面にあなたたちを映すことはなく、ただ、ガラスの外を降る雪だけを映していた。起こしに来てくれる人たちを失ったわたしは、あれからずっと眠りつづけている。
あなたたちの部屋の、ケヤキの木が見える窓と反対側の、ベッドの枕の上辺りの天井近くに作りつけられた戸棚のなかには小さなライオンがいることをわたしは知っている。ライオンは昼間眠っていて、夜の間じゅう、戸棚のなかを円を描くようにぐるぐるとまわっている。小さくてものっしのっしと威厳をもって。あなたたちが消えた後も、その習慣はつづいている。だけど、わたしはすべてを知っているわけではなかった。あなたたちが消えてしまった二週間後に、それまでのライオンとそっくりな別のライオンにすり替えられていたことまでは知らない。そのライオンを、二頭目のライオンと言ってよいのかどうかも分からない。戸棚のなかのライオンのすり替えは、これまでも何度も繰り返されてきたことかもしれないからだ。間違いのないことは、それらのライオンがすべてそっくりであることと、どのライオンも、昼間は眠っていて、夜の間じゅうずっと、ぐるぐる歩いているということ、戸棚の外へは決して出ないことだった。
もう一つわたしが知っているのは、ベッドの足元に位置するドアから出たキッチンの、テーブルの上に置かれたコーヒー豆挽きの湾曲したアームが、三日か四日に一度くらいの間隔で、四、五回くるくるっと自動的に回転することだ。そして、アームが回転すると必ず、どこからか積み木が倒れたくらいの小さな音が、コトンと聞こえてくる。
あるいは、彼女は物知りだと評判のギャラリースタッフのAならば、あなたたちのいなくなった部屋についてもっと多くのことを知っているかもしれない。たとえば、洗面台の棚に置かれているはずのカミソリが、時々きまぐれに、キッチンのシンクにぽつんと置かれていることがあり、その時には必ずシンクに水が張られていて、つまりカミソリが水没する、とか、洗面台とキッチンの流し場との両方に水切りケースに入れて置かれている石鹸が、正確に五十七時間と三分三十三秒に一度入れ替わる、とか、その時、きわめてかすかにではあるが、洗面台にはコーヒーの香りが、キッチンには歯磨き粉の香りが、ふわっと漂うのだ、とか、そういうことを。
ギャラリースタッフのAは、あなたたちが消えてしまった後もギャラリーで働いている。ギャラリーからは、ケヤキの木に隠されてあなたたちの部屋の窓は見えない。それにそもそも、Aはほとんど奥のオフィスにいる。
ギャラリーは水曜が休みなので、水曜にはガラス戸を押しても開かないし、鈴もちりんと鳴らない。普段は、Aともう一人のスタッフが切り盛りしていて、社長は週に一度と展覧会のオープニングにしか顔を出さない。精力的に飛び回っていると言えば聞こえはいいが、そうしなければならないほど経営は厳しいのだ。Aはあなたたちと面識はないはずだが、あなたたちのことをよく知っている。あなたたちとAとの初対面となるはずだったあの瞬間より前に、あなたたちは消えてしまった。奥のオフィスで事務仕事をしながら、Aはしばしばあなたたちのことを考える。そうするとどうしても手が止まってしまうし、ぼんやりしてしまう。そして時々、もう一人のスタッフからやんわりと注意される。
全体に無機質でさっぱりしたオフィスには似合わないが、壁には鹿の首の剥製が飾られている。それは社長の趣味で、社長自身が海外で仕留めてきたものだ。鹿は四本の角をもつ。内側の二本は軽く弧を描いてシンブルにすっと伸びている。外側の角は木の枝のように枝分かれして、大きく外側へとひろがっている。威嚇するように拡張する角とは対照的に、鹿はつぶらな瞳をしているし、鼻面の延びた顔からは攻撃性が感じられない。それとそっくりな鹿が、社長の家にももう一頭いる。これは公然の秘密というか、誰もが知っているのだが誰もあえてそこには触れないという事実なのだが、Aは社長と同棲している。だからAは、家に帰ってもそれとそっくりな剥製を目にすることになる。オフィスでも家でもAはそれをずっと目にしつづけ、時にじっと見つめるが、決して飽きることはない。
眠っているわたしの目からはずっと涙が流れつづけている。泣くことは、悲しみであり苦しみであるだけではなく喜びなのだ。泣くことそのものの心地よさが、眠るわたしに涙を流しつづけさせている。やわらかくてあたたかいものから、背中を、とん、とん、とん、と叩かれるのを感じている。
目から零れつづける涙は、顔の側面を通っていったん耳たぶに溜まり、そこから溢れて髪を濡らした。濡れた髪は黒く輝いた。その水分はゆっくりと枕に吸収され、その下の布団やマットレスに吸い込まれてゆく。涙はさらに、螺旋形をしたベッドのスプリングをその形に沿ってくるくる回りながら伝って、一滴、また一滴と、時間をかけて床に落ちてゆく。床は、ビー玉を置くと転がるのではじめて気づくくらいに緩く傾斜している。涙の粒は低くなっている北の方へと流れてゆく。その水は北側の隅に設置されたホースからポンプによって吸い上げられ、別のホースを通って洗濯機のなかに溜められる。洗濯機は水が一定の量に達するとスイッチが入り、洗濯物がないままで自動的に回り始める。ずいぶん古いものなので振動が大きく、それはわたしのベッドを震わせるほどだ。スチール製のベッドはギシギシと音をたてていることだろう。そのような騒音と振動のなかで、わたしは眠っている。洗濯機は最初はゆったりと回り、しだいに激しく回転し、しばらくすると止まって排水ホースから水を吐き出す。洗濯機の排水ホースは風呂場に繋がっていて、涙は排水口に吸い込まれてゆく。その後洗濯機は、脱水のために空の洗濯槽を再び激しく回転させ、振動させる。脱水を終えるとピーッ、ピーッ、ピーッという音とともにスイッチが切れ、激しく振動していたものとは別物みたいに、次に水が溜まるまで隠れるようにひっそりしている。作動するポンプのウーッと唸るような音だけが残される。風呂場の排水口に被せられた金属製の網には髪の毛が何本か絡まっている。
たった今、あなたたちの部屋の流し場と洗面台との間で行われる五十七時間と三分三十三秒に一度の石鹸の交代が起こった。コーヒーと歯磨き粉の香りもたった。そしてその同じ時に、オフィスと社長の家にある鹿の剥製が、二頭とも同時に瞬きをしたのだ。Aにはそれが分かった。きょとんとした表情のまま手を止めているAに、もう一人のスタッフがAと社長との関係について遠回しな嫌味を言った。
風が吹くとギャラリーの前に立つケヤキが葉擦れの音をたてる。すっかり葉が落ちた冬でもそれはかわらない。もう一人のスタッフは今自分が口にしてしまった言葉について後悔する。いつも、言わなくてもよい一言を口にしてしまうと思っている。Aと社長の関係を知って以来、どうしても自分がのけ者であるかのように感じられてしまう。Aからも社長からもフェアではない扱いを受けることはない。仕事以外で社長に興味があるわけでもない。それなのに疎外感を感じている自分を発見し、彼女はそのことに戸惑う。Aは自分の言葉に込められたトゲを気づいているのかいないのか、いつもそれをやわらかく受け流す。嫌な顔のひとつもしてくれたらいいのに。
彼女は壁に掛けられた鹿の剥製を見る。彼女はそれが社長の家にもあることを知らない。しかし、それと同じものは彼女のアパートにもあった。社長から贈られたのではなくたんなる偶然だ。彼女の部屋の剥製が掛けてある壁の、その向こう側からは、時々、複数の人物がぼそぼそと喋っている声が聞こえてくる。それが人の声であることが分かり、言葉であることは分かるが、何を言っているのかは分からないくらいの音量で聞こえる。彼女の部屋の隣は空き部屋であるはずだ。彼女はそれを知っているが、声の調子があまりに穏やかなので気にはしていない。むしろその声を聞くと安心した気持ちになる。声が聞こえるとテレビを無音にしたり、洗濯中でも洗濯機を止めることさえある。一、二週に一度の割合で部屋を訪れる恋人も、声を聞くと「いい感じだね」と言う。二人で黙って声を聞いていることもある。だが恋人は隣が空き部屋であることは知らない。恋人の顔は剥製の鹿にどことなく似ているが、彼女は気づいていない。隣の部屋は前の住人が出たあとリフォームが行われ、いつでも新たな住人を迎え入れることの出来る状態で長く空いている。
社長は、家でAの帰りを待つうちにうつらうつら眠ってしまう。連日、持ち帰った仕事をこなすのに明け方近くまでかかっているのだ。社長は夢をイメージではなく言葉で見る。パソコンの画面で文案を練るように、適当な文章を見つけ出すために何度も言葉を入れ替え、文を入れ替えるというのが社長の夢のかたちだ。あと一息で、自分の思う通りの表現に到達しそうだが、何か一つ足りない。そう思って改稿を重ねるうち、ふと、最初の思いとはかけ離れた文になってしまっていることに気づく。すべてをやり直さなくてはいけないと、今までの文章を消去して、再びはじめる。そんなことを繰り返すうちに、とうとう納得の出来る表現にたどり着く。そして社長は、幸福な思いとともに目覚める。目覚めてしまえば、夢の会心の文章はその抑揚と息遣いだけを残し消えている。そんな社長を鹿の剥製のまなざしがやさしく見つめている。
眠りからまだ覚めきらない幸福な手触りのなかで、社長は自分が経営するギャラリーの前に立つケヤキの木の葉擦れの音を思い出す。集中して、明確にイメージすれば、実際にその音に包まれているのと変わらない状態になる。そして、ケヤキの袂から見上げる二階の窓を思い起こす。明確にイメージすれば、それは実際に見えているのと変わらない。葉擦れの音はいつの間にか、大勢の人々のつぶやき声が折り重なった音のように聞こえてくる。それにつれられて自分の口からもつぶやく声が漏れていることに社長は気づいていない。そしてついに社長は、あなたたちと共に、あなたたちの部屋のなかにいる。誰かがコーヒー豆挽きを回し、誰かがカミソリを使い、誰かが歯を磨き、誰かが積み木を並べ、誰かが石鹸の位置を替え、誰かが部屋のなかをぐるぐる廻り、皆、何かをぶつぶつつぶやいている。ライオンはまだ寝ているようだ。社長は、窓の脇に立って外のケヤキを見る。ケヤキは既に葉のすべてを落として丸裸だ。社長のところまでコーヒーの香りがかすかに漂ってくる。ゆっくりと腕を伸ばし、掌をガラス面にあてる。その冷たさを感じながら、社長はゆっくりと目を閉じる。
それからしばらくした後に、用事を済ませて家に戻ったAは、社長は消えてしまったと覚ることになるはずだった。鹿の眼差しが彼女に確信を与える。