⚫︎『恩寵』(ほしおさなえ)。力作ではあると思う。2008年に出た本で、これこそが初期の作風から現在の作風への最初の転換点と言えるのか。
最初の過去のバート(4.星)が始まるより前、1章から3章を読んでいるときは、これはすごくいいのではないかと興奮気味だったが、4章に入って、ああ、そっちにいってしまったか、と思った。
台地という地形があり、その斜面からの湧水である二ノ池、三ノ池という池があるという土地が舞台。ならば「一ノ池」があるはずだということになり、現在では枯れて失われてしまった一ノ池の水源が、主人公がたまたま借りた古い家の井戸であった(家の前の原っぱがおそらくかつて池だった)ことが後でわかるという展開と、このトポスの配置(二ノ池が、最寄りの駅名であり、三ノ池が、主人公がバイトをする大学附属の植物園の名でもある)。土地の上に街があり、土地と共に街はあるが、街は時として土地を覆い隠す。この関係性の面白さ。これは遠い過去の話だが、近い過去として、主人公が借りた家が、実は高台にある(空き家になっている)お屋敷である母屋の「はなれ」であったということが後からわかる(母屋と離れとの通路は今では閉ざされている)、という展開がある。この「お屋敷」での出来事が、過去パートとして主人公の現在に絡んでくる。このような、土地と街(空間)と過去と現在(時間)の畳み込みがとても魅力的で、ドキドキしながら読んだ。
(植物園が舞台の話はありがちだが、その植物園の立地が「(湧水を含む)斜面」であるというだけで空間の感触がずいぶん違ってくる。)
しかし、過去パートの「芸術家たち」の話は、あまりに物語物語しすぎていて、また過剰に苛烈でありすぎて、ぼくにはあまりリアリティが感じられず、うーんという感じになった。
とはいえ、そこからまた現代パートに戻ってきて、主人公が気になっている男性と、ふらっと東北へ「水牛」を探しに行くゆるいエピソードがとてもよくて、あー、この感じ、と思う。このエピソードは、二人の関係が深まっていく過程(段階)を示すという以上に重要な意味があると思う。
物語物語しすぎている過去パートは、ちょっと「ノルウェイの森」っぽい雰囲気で(とはいえ「ノルウェイの森」を読んだのは35年くらい前なので雰囲気くらいしか憶えていないが)、その感じと、現代パートでやろうとしていることがあまり噛み合っていないように思えた。
構成としては、過剰に苛烈である過去パートが、ゆるい感じの現代パートによって解き解されていく、みたいになっている。そして、過去に囚われているのは主人公ではなく、彼女と仲良くなる男性の方なのだ。当初は、自分に自信がなくガードも堅い主人公を、飄々とした男性が少しずつ解き解す感じだったのが、実は男性の方こそが、(彼個人の問題というよりは)代々受け継がれたより根深い「呪い(過去パート)」に囚われていて、主人公がそれを解き解すというふうに逆転する。
(宛名の書かれた、しかし「中身」のない「封筒」に中身が充填されることで、父の世代の男女の行き違いが解消され、それによって息子の世代の呪いが解かれる。その時に、バラバラになってしまった「封筒」と「中身」とを媒介するのが、他人の夢の中に入り込むという主人公の「特殊能力」だ。)
また、過去パートにおける「呪い」は「古典的な芸術家(書家・建築家)」とその「父からの継承」をめぐるものであるのに対し、「呪い」を解き解す現代パートは「工芸的、職人的な作家(刺繍作家・造園家)」の話であり、「現代」パートで「過去」に囚われている男性は両者の中間的な位置(陶芸家・イラストレーター)にある、というのがちょっと面白い。古典的芸術家の継承は「父から娘へ」「父から息子へ」といった男系的で一子相伝的な継承であるが、主人公の持つ(刺繍の巧みさも含む)特殊能力は、女系的で隔世遺伝的な継承(母方の祖母の姉から主人公へ)である。前者の継承は家系図(歴史・系統樹)に書き込まれるが、後者は書き込まれない。前者が過去パートであり、後者が現代パートに相当する。
(前者ではなく後者を重要視するというのが、この後も続く、この作家の一貫した姿勢なのだろう。)
(現代パートでは女性たちのゆるいネットワーク的繋がりが描かれるが、過去パートの男性たちは「親友」と決裂したり離れ離れになったりする。女性たちのつながりも男性を媒介とすることで離別してしまう。)
(現代パートと過去パートを通じた、呪いを生んだり解き解したりするさまざまな「継承」のあり方が、最後は、「女性が子供を産む」というとても「直接的な継承」に至って物語が閉じられる。)
⚫︎最初の三つの章(と、東北への「水牛」探索旅行の場面)によって開かれた、土地と街との関係におけるさまざまな空間と時間の畳み込みの可能性が、過去のパートではほとんど生かされず、展開されないまま終わってしまったのが惜しいと思った。これはあくまで、ぼくの関心に沿った視点から見て、ということだが。