2026/01/04

⚫︎U-NEXTで『近畿地方のある場所について』(白石晃士)を観た(原作は読んでいない)。観始めてすぐ、これは新年早々に観る映画じゃなかったな、少し後悔する。

《「何らかの手段で見つかった、実際の出来事をめぐるテキストや視聴覚資料(=フッテージ)そのもの、あるいはそれらをめぐる語りととともに編集し成立したノンフィクション」を装》った(山本浩貴「ささやかな「本当らしさ」からこの世界そのものの「フィクション」へ」より)、最近はやりの形式のホラーのように、一見すると思えるが、全体の構造としてはむしろ90年代以降の(もはや)伝統的なJホラーのナラティブを踏襲した作品で、特に新鮮なものは感じられず、むしろ(『リング』などとも共通する)Jホラーの構造的な弱点のようなものが気に掛かってしまった。とはいえ、恐怖、というよりむしろ生理的嫌悪感からくる「嫌な感じ」「胸のざわつき」「鳥肌と背筋の寒気」を強く惹起させるような細部を作り出す技術のすごさを改めて感じる作品でもあった(だから、新年早々観るものではないと思った)。

⚫︎本来、通常の因果では測れない現象であるが故にそう名付けられる「霊的現象」あるいは「呪い」といった題材を用いたフィクションを長編化する時、そこに「因果を追いかける」というミステリ的なナラティブがしばしば採用される。だがそれはそもそも、「通常の因果では測れない現象」の「因果」を探っていくという矛盾したあり方をしている。「霊的現象」が、我々が普通に信じている常識的な因果によって伝播するものだという保証はどこにもないし、仮に、ある呪いの根源(たとえば、その大元になる呪物)にまで行き着き、この根源を物理的に破壊する、あるいは除霊するなどの行為を施したからといって、その「呪い」が消えるという根拠はどこにもない。物理法則を超える霊的現象に「物理的破壊」が効くととは思えないし、他方、「除霊」などという行為の正当性がどのように保障されるというのか。

だから、因果を追って呪いのオリジナルに迫っていくというナラティブのホラーにおいては、最初にある「(わけのわからない)理不尽な恐怖」にこそ最も強いリアリティがあり、事の真相に近づいていけばいくほど、物語の根拠の薄さが露呈し、徐々に嘘っぽく感じられるようになってしまう。たとえば『リング』においては、呪いの根源である「貞子の境遇」よりも、呪いのビデオ映像がわけもなく怖い、テレビから幽霊が出てくるのが怖い、まつ毛のない目が怖い、井戸の底に幽閉されるのが怖い、ということの方が重要になる。

(たとえば『呪怨』では、オリジナルな「呪いの根源」が問題なのではなく、「呪い」がひたすら伝播・拡散されていくことの方に恐怖にリアリティのキモが置かれていることが当時、斬新だった。あるいは『魔法少女山田』では、追求されている「呪いの根源」が霊的現象ではなくトラウマであることにより、ミステリ的な因果探究が正当化される。そのようにして根本的欠点を回避している。)

(注意。ここより後ではネタバレをしています。)

⚫︎この映画は、中年の男性記者が若い女性記者にパワハラギリギリの発言をして若い男性記者から嗜められるという「テンプレ場面」から始まり、なんて紋切り型の段取り場面なのか、と、まずうんざりさせられる。物語は、資料を残して記事を書かないまま失踪した中年記者の「意図」を、残された資料から探り出すという動機で始まる(雑多な資料が次々提示される前半部分が現代ホラー風味である)。探求は、経験ある女性ライターと若い男性記者のペアで行われ、この過程で若い男性記者もまた「呪い」に巻き込まれるため、探究がたんに記事の完成のためだけではなく自分の安全にためにも必要だという切実性を帯びる。ただし、探究の末に辿り着く「呪いの根源」はほぼ無意味で空虚なもので「外的で超越的な何かしらの力」という以上の具体性はない。ここに僅かに「根源探究型ホラー」への批評があるかもしれない。ただしこの謎の呪力は、どうも「大切な人を死によって失った人の心」を養分として拡散され、発揮されるようだ。そして結局、物語は「人間ドラマ」として収束する。敵は「心霊」ではなく「心霊を利用する人間」であった、という意外な結末(どんでん返し)で終わる。呪いの根源に意味はないが、事件の根源には意味(生きている人間の感情と策略)があったという形で「ミステリ的因果探究」が正当化される。

だがここで問題なのは、物語の根拠となる人間の感情が「子を思う母の狂気(執念)」であるというところだ。いやいや、そんな古典的な紋切り型にもっていくのかと呆れてしまったのだが、それは逆からみれば、大衆的な物語の根拠としては「古典的な紋切り型」が今もなお有効(あるいは必要)であることを示しているだろう。ここに、ホラーの保守性、ホラーの反動性があり、それがまたホラーによる差別煽動や差別肯定に繋がりかねない危険なところでもある。

そもそも因果律に従うかどうかも分からない心霊現象について「因果的に追求する」物語の根拠のなさを前述したが、それはつまり「因果の根拠」の正当性が「何かしらの外的基準」にあるのではなく「わたしの気持ちにフィットするかどうか」という心的説得力によって決まってしまうということだろう。この物語の「犯人」である女性ライターは「呪いの根源である石を破壊すれば呪いは解かれる」という因果関係を口にし、男性記者は疑問を持つことなくその因果を信じ込んでしまうが、「石の破壊→呪いの解除」という因果を保証する根拠などどこにもない。だが、ことは心霊現象であり、それを口にするのが経験のある心霊ライターであることから「何となくもっともらしい」以上の根拠がないことなのにそれを疑うことができない(何よりも、呪われた当事者である男性記者はそれを「信じたい」のだ)。しかしそれこそが女性ライターの策略であった。切迫した当事者である男性記者は(そして観客もまた)いとも簡単にその「偽の因果」に騙されるのだ。ここにも「因果探究型ホラー」へのアイロニーを感じることができるかもしれない。

だがその上で、この映画は物語の感情的な根拠を「子を思う母の狂気(執念)」という保守的紋切り型へと着地させる。これは、安易な選択の結果なのか、それとも意識的な露悪なのだろうか。どちらにしてもいただけない、とぼくは思う。