⚫︎オンライン試写で『もどらないかげ』(厨子翔平)。観たことのないような不思議な映画だった。
これはスケールが大きいのか小さいのか。佐賀県有田町に住む、陶芸をする極端に無口な兄と、ふわっとしているのかどっしりしているのかよくわからない(バックパッカーで)ダンサーの妹、そしてその周囲の狭い世界の話であるが、ここで捉えられる風景は、ローカルな土地の風景でもなく、いわゆる「自然」でもなくて、「地球」という感じがする。その地球は、太陽系とともに約46億年前に形成され、太陽系を含む銀河系は約130億年前くらいから徐々に形成された。そのような宇宙的スケールと直接つながっているようなものとしてある「(小さな)地元の風景」に見える。
ちょっと大袈裟な物言いかもしれないが、宇宙の中に46億年前に生まれた地球が、徐々に冷えてそれから約3億年後に海が生まれ、今から25億年前くらいに大気中の濃度が急激に上昇する。そのような地球の歴史の流れの末にあるものとして、今、ここ、である佐賀県有田町のこの場所(この山のなか)が捉えられる、ように思える。同様に、約40億年前に海中で生命が誕生し、ホモ・サピエンスが30万年くらい前に生まれる。そのような流れの末にあるものとして、一人の無口な髭の男が、「ここ」にぼさっと突っ立っている。
宇宙・地球・地球上の大気の変化や地殻の変動・造山運動に土地の隆起や沈降・人類の誕生と世界中への拡散、そういうものたちと、今、ここに見えている、この土地の、高低差の激しい風景や、ここで行われているささやかな生と行為とが、階層構造を作らずに、いわば縦に貫かれた形で繋がってある、という感覚。横への広がりとしてのグローバリズムでもなく、横幅の限定としてのローカリズムでもない。今、ここ、という極めて狭い場所が、縦に貫かれて遥か宇宙まで繋がっている。
とはいえ、ここには縦方向への超越的な「飛翔」があるわけではない。「飛翔(上昇)」は、神秘という意味でも権力という意味でも、この映画とは最も無縁なものだ。兄も妹も、自転車の男もオーラルヒストリーの女も、ダンスをする年寄りたちも、水平的に、狭い土地の地べたにはり付いて生きていて、「上」に向かう感じは少しもない。上が聖的で下が俗的ということではない。「上」に行かなくても「ここ」がすでに宇宙であるのだ。宇宙の中に地球があり、地球の中に有田の山があり、有田の山の中にコミュニティがあり、兄があり妹がある。だがそれらは平等であり、包摂関係にあるが階層関係にあるのではない。有田の山は地球の中の極めて狭い限定された地域であるが、そこは宇宙でもある。しかし、有田の山と宇宙とはコスモロジー(世界観・隠喩)によって繋がっているのではなく、宇宙・地球・有田と、「ただ縦に貫かれる」なにものか(物理法則 ? )で繋がっている。有田の狭いコミュニティも、生命や人類の歴史と、隠喩によってではなく、「ただ縦に貫かれる」なにものかか(自然史 ? )によって繋がっている。
横にも広がらないし、上にも昇らない(下・根本を問うのでもない)。狭くて小っちゃいこの場所が、そのままで、広くてでっかい領域と同等である。だから拡張したり上昇したりする必要はない。ここにある「貧しい素材」の中に宇宙のすべてが潜在している。そのような意味で、この作品にはスケールがないように思う。極めて地域密着的なこの作品に、不思議に抽象的な感覚を感じるのはそのためではないか。
たとえば「陶芸」は、山から土を持ってきて、土を捏ね、形を作り、焼くというレベルでは、宇宙的・物理学的なものであるが、それを作って・売り・生計を立てる、という産業・経済ネットワークの中にあるものと考えれば社会的なものである。この映画では、土地にかんしても、人に営みにかんしても、常に後者よりも前者に重きを置いて捉えられているように見える。人によっては、後者の欠落を批判的に考える人もいるかもしれないが、「社会的な見方」ばかりが溢れているこの「社会」の中で、モノや、人や、コミュニティまでもを、そうではない視点(宇宙からの視点)から捉え直すというのが、この映画のやろうとしていることなのではないか。「宇宙からの視点」というと、俯瞰的・超越的な視点であるかのように思ってしまうが、そうではなく、今、ここ、という狭い範囲に現れていることの「宇宙的側面」が強調されるのだ。
国の中に人がいる、あるいは、社会の中に人がいるのではなく、宇宙の中にいきなり人がいる。あるいは、国や社会の中にコミュニティがあるのではなく、宇宙の中にいきなりコミュニティがある。宇宙の風に直接吹かれるようにして土地の風景があり、宇宙の風に直接吹かれるようにして土地のコミュニティがあり、宇宙の風に直接吹かれるようにして土地の人々が立っている。この映画は、世界をそのように捉えているのではないか。
その時に、映画に必要なのは物語や劇的展開ではないし、人物に必要なのは、役柄や関係の軋轢ではない。劇的展開や関係の軋轢よりも、ダンスが重要だろう。
(山の中の、湧き水の湧く神秘的とも言える洞窟の奥から出てくるのが、妖精でも怪異でも野生動物でもなく「宇宙論おじさん」であるところがとても面白い。)
(こういうことをベタに表現しようとするとテレンス・マリックみたいになってしまうが、まったくそうではないところがとてもクレバーだと思う。)
(自転車のシーンが素晴らしいのは、その疾走感によってではなく、自転車(の走行)が「土地を表現する」ための優れた媒介になっているからだと思う。自転車は走行することで「重力」と戯れ、それが結果として土地のありようを表現する。)
(この映画を観たすべての人が思うことだと思うけど、まさに宇宙の風に直接吹かれて立っているかのような妹役の人が素晴らしいのだが、プロだろうと素人だろうと「俳優」には決してできないことをやっていると思った。)