⚫︎「ガンダムNT」は、傑作と言える「ガンダムUC」の一年後の話で、脚本も同じ福井晴敏なのだが、これはあまり面白くない。
「ガンダム」の宇宙世紀シリーズにおいて、ニュータイプという概念は、キーになる重要なものであると同時に、最大の弱点でもある。ニュータイプとは、戦争と政治でガチガチに凝り固まってにっちもさっちも行かない現生世代に対して、それを超克する可能性を持つ新しい世代のことを指すが、とにかく現状とは違って「新しい」ということだけがあって、その具体的な内実の設定は実に脆弱だ。テレパシーのようなものを使えて人と人との分断を解消し得る(人との感応)とか、機械の持つポテンシャルを物理的制約を超えたレベルで引き出すことができる(機械との感応)とか、軽い予知能力がある(世界・宇宙との感応)とか、具体的にはその程度のことだ。軽くスピッている。
だから、ファーストガンダムにおいてあまりに曖昧なままであるニュータイプという概念について深掘りした物語を作ろうとすると、個を超えた人類全体の意思の結合とか、なんなら宇宙意思との統合とか、宇宙の歴史を過去から未来まで俯瞰的に把握できる存在につながるとか、「現状の行き詰まりを打破する」という課題を一足飛びに突き抜けて、神とか超越のレベルに、「中間段階」を経ずに行ってしまって、物語のリアリティがなくなってしまう。
ガンダムの宇宙世紀の物語は、人口増加と環境悪化により、多くの人間が地球を離れてスペースコロニーで生活し始めるところから始まる。とはいえ実情は、権力や富をもつ人々は地球に残り、貧しく弱い立場の人々が宇宙に捨てられるという棄民政策であった。そのような宇宙に捨てられた人々の中から、地球連邦政府に対して自治独立を求めて戦争を仕掛けるのがサイド3と呼ばれるコロニー群に住むジオンの人々だ。だからこれは、独立運動であり、革命運動でもある。
だがここに逆説があり、既得権である地球連邦に対して独立を求める革命側であるジオン軍(ジオン公国)が、地球連邦よりもずっとずっと全体主義的であり専制君主的であるということだ。経済的にも技術的にも貧しいジオンが地球に勝つためには、そうであるしかなかった。そして実際、全体主義的な軍は強い。さらにもう一つ逆説があり、この、革命軍と既得権益軍との戦争は、革命軍がかなりいいところまで行くにもかかわらず、革命軍側(独裁一家)の「内紛」によって自滅して敗北する。
革命側こそが全体主義的、専制君主的であり、かつ内紛ばかりして自滅する。これは二十世紀の政治や革命に対する富野の批判だろう。そしてこの傾向は、残念ながら二十一世紀も四分の一過ぎた現在でも同様であろう。
(「正義」という概念の持つ専制君主的な傾向。)
そのような状況を超克し得る存在がニュータイプなのだが、ここにもさらに逆説がある。対立や分断を超えるための高いポテンシャルを持つニュータイプは、そのまま、軍人、というより「兵器」として、非常に高い能力を持っていることになる。だからニュータイプは、現状を超克するどころか、現状の対立構造に利用されて、むしろその対立構造を強化することに貢献してしまう。だからファーストガンダムは、アムロとシャアという、二人のニュータイプの争いという構図を持つ。
このような、幾つもの逆説の上に成り立つファーストガンダムの問題系を、それ以降の宇宙世紀シリーズは引き継ぐことになる。そしてそこでもやはり、ニュータイプという重要な概念の「弱さ」が、繰り返しネックとなっていく。
「兵器」としての有用性というニュータイプの負の側面を強化するのが「Zガンダム」以降に出てくる強化人間という存在だ。強化人間とは、軍事兵器として、人工的に無理やりに「開発・製造」されたニュータイプ(ニュータイプもどき)のことだ。明らかに人権上大きな問題のある「兵器として製造される人間」は、その有用性の高さから、秘密裏に、そして繰り返し、製造され続けることになる。この「強化人間」という悲劇的な存在は、宇宙世紀シリーズにおいてこの後も一つの重要なモチーフとして、繰り返し語り直される。
ここまできてようやく冒頭に戻るのだが、「ガンダムNT」は、まさにこの「強化人間」と「ニュータイプ」について、そこに焦点を当てて深掘りしようとする物語だ。この作品は基本として(スピリチュアル化に対してあまりに無防備である)ニュータイプという概念を批判しているのだけど、その批判のあり方が、それが人間の制御を超えた、「この世界」にあってはならない力であるという形に、ニュータイプという概念を縮減した上で行われる批判だろう。それはニュータイプという概念の「弱い」方の側面だ。そこには、ニュータイプという概念に元々あった、「新しい世代」、あるいは、「今までにこの世界になかった新しい何かの出現」という重要な側面についての検討がない。
ニュータイプ=魂の融合=不死の実現という「観念」が、未だ「死」のあるこの世界で、多くの争いの火種となり、暴力を生みだし、多くの「死」を生み出してしまう。不死を求める野心こそが、現世で多くの死をもたらす。このような批判は、このレベルでは妥当なものだと思われる。しかし同時に、このような「不死という概念」への批判は、特に目新しいものでもない(ここには、シンギュラリティ=不死の実現と考えるカーツワイルなどへの批判も含まれるだろう)。
だけど、ニュータイプという概念で重要なのはそっちではなく、未知の新しい何かの出現という方なのだと思う。「新しい何か」の持つ、可能性と危険性。新しいものは、良い可能性を持つと同時に、最悪の帰結と結びつく可能性もある。そのような「新しさ」について、どう考え、どのような態度を取るべきか。富野の「ガンダム」が問題にしているのは、こちらの方が主であるように思われる。
(「今が全てではない」というセリフが繰り返され、「永遠の命」が否定され「輪廻(魂は何度も生まれ変わる)」が肯定される。そして、輪廻の果てに人はいつかは変わり得るという希望が語られる。しかしそのような超越的な視点では、地上=現世=俗世のなかでその都度生まれる「新しさ」を問題にできない。)
(ニュータイプ、強化人間という概念を、うまいこと解体し、リビルドして弱点を目立たせないようにしているのが「水星の魔女」だと思う。)