『ネオリベ現代生活批判』の樫村愛子のインタビューで興味深いのは

●『ネオリベ現代生活批判』の樫村愛子のインタビューで興味深いのは、ネオリベ的なものと六八年的なものが通邸しているという(そうとも読める)指摘だ。無意識に埋め込まれ作動する「共同体的なもの」や、個と社会を繋ぐ中間的な媒介としての「文化(記憶)」に依存することなく、すべての行為を(直接)「自己決定」して、その結果に自ら責任を持つという「再帰的自己」は、まさにネオリベ的権力(社会体制)によって要請される(都合のよい)ものであると同時に、六八年的な思想にとっても、目指されるべきものであった。ここで目指されているのは、権威や抑圧(という「既得権」)の破壊(脱構築)による水平性、透明性の獲得であり、水平的でネットワーク的な社会関係の実現であろう。そしてそれは「幻想」の破壊によって行われる。
(精神分析による「幻想」の意味を樫村氏は以下のように明確に述べている。《幻想とは、主体が自己、あるいは自己と世界との関係についてもつ一つの固定した「良い」イマージュであり、また、そのイマージュを維持し続ける作用である。幻想は、最初の他者との密着した関係に支えられ、そこでの充足を再現しようとする運動であり、言語を通じて形成される自己や世界の現実認識とは別に起源をもって、過酷な現実認識から主体を防衛しようとする。とはいえ幻想は、主体が現実に適応するために最終的には現実認識を受容し自己変容するよう、むしろ主体を支えるものであり、それゆえ、社会変容や社会変動において、最も重要な分析の鍵となる。》つまり幻想は、人間の行為の「現実的な次元」での持続を裏から支えているようなもののことだろう。)
●六八年的な思想は、世界全体(とは言っても、それは一部のインテリにとっての「世界」ではあるが)を覆う一種の祝祭的な雰囲気(気分)を下地にして、その祝祭的な沸騰(による意識の「退行」)による全能感のなかで、あらゆる権威や抑圧を一気に解消して、透明で水平的な社会関係を(「一気に」)実現しようとした、というロマンチックな傾向をもつ。(このような幻想をきわめてうつくしく形象化したのが、フィリップ・ド・ブロカ監督の『まぼろしの市街戦』ではないかと、ぼくは思う。さらに、『うる星やつらビューティフルドリーマー』は、その見事な変奏の一つだと思う。)しかしこれが、退行による全能感のなかでのみ作動する幻想を基盤にしている以上、具体的、現実的な社会の変革に向けた持続的な努力や試みを支えるような幻想とはなり得なかった。
●六八年的な思想(気分)は、現実的な社会変革に失敗した後も、ニューエイジ運動や自己啓発セミナーのようなもののなかに受け継がれる、と。ただ、ニューエイジ的なものにおいては、その退行的水平性(退行的になることによって微かにあらわれる「共同性」による「癒し」)が、退行的な場でのみ可能であることが半ば以上意識されていて、だからそれは、あくまで、現実的な状況の厳しさに耐え難さを感じている人にとっての、待避、あるいは逃避のための場としてある。一方、自己啓発セミナーでは、退行的な場における水平性(全能感)が、そのまま現実的、社会的な場においても可能であると思い込ませる、という詐術が行われる。(「わたしたちは、今ここで、みんな、こんなに分かり合っているのだから、社会的な場でも分かり合えないはずがない!」と。)つまり、退行的な場での全能感が、そのまま社会的な場に接続されてしまう。それを極端に言い換えるならば、六八年的な思想とは、自己啓発セミナーのようなもの(上昇志向と極端なポジティブシンキングの無理矢理な結合?)であった(!)、とも読める。
●現代の社会(現代の資本主義)においては、共同性や文化(無意識や記憶や時間の蓄積)が十分に作動していないので、そこで働く様々な抑圧や権威(例えば、財産、能力、階級、教育などに、あらかじめ大きな格差があるという認識)が機能せず、社会的な格差や不平等がきわめて見えにくくなっている。(例えば、学歴社会というのは分かりやすいが、学閥社会だったら見えにくい、とか。)格差が存在することに気付かないわけでは勿論ないのだろうが、それを明確に意識化(言語化)することが難しく、だからこそ、誰でもが努力すれば(「努力すれば」というのはリアルではないかも知れなくて、現在の資本主義下では「運が良ければ」の方がリアルかもしれない)成功する可能性があるという思い(現実にはチャンスにも能力にも格差があるのだから、これも一種の退行的水平性だろう)が生じ、それがまた、成功するもしないも「自己責任」というイデオロギーを補強、強化してしまう。誰でもが「運が良ければ(努力すれば)」成功するかもしれない、という(きわめて微かな)希望こそが、人に、時給850円で、しかも何の保証もない(いくら働いても何も「蓄積」されない)状態で働くことを(無理矢理に)納得させる。ここで「希望」とは、ほとんど宝くじのように「当たる」確率が低いものでしかなく、しかしまた、宝くじのようであるからこそ。ある種の水平性(平等さ)という幻想が成立可能なのかも知れない。それはつまり、希望(夢)が、宝くじに当たることくらいしかあり得ないということでもある。
●以下、インタビューの引用。
《フランスのジャン=ピエール・ゴフは、今日のネオリベ的な状況を「ポスト全体主義」と呼び、この状況は現在官僚や企業経営者となっているかつての六八年世代が作り出しているものだと言っています。彼らは、ある種ユートピア的な近代主義の幻想(透明性への憧れ、権威の解体)の上で、現在の人間的条件を破壊しているんですね。(略)人間の生きる条件の破壊は、人間への幻想の上でなされているんです。かつて大学解体を唱えていた六八年世代の人たちは、大学の権力を批判し、その外に水平的な自由な文化や知の場所を構成しようとしたのでしょうが、現在は結局知の条件そのものを破壊しつつあるわけです。最近のフランスでの議論は、このこと一点に集中しているといってもいいくらいです。》