2025-07-30

⚫︎吉本隆明にかんしては、強く、集中した関心があるのではないが、ゆるく、長くつづく関心があり続けている。特に『ハイ・イメージ論』を中心とした晩年の仕事に惹かれる。ただ、ずっと気になっていつづけているが、今一つ、ぐっと核心に迫れない感がある。

宮沢賢治』と「柳田國男論」は、『ハイ・イメージ論』とほぼ並行して書き進められた作家論で、モチーフ的にも共通するところが多い。特に宮沢賢治は『ハイ・イメージ論』にも度々取り上げられる、論の中核にあるような作家だ。

『ハイ・イメージ論』は、未知の現在、あるいは未来を捉えようとする論考だが、その対局として、科学的・歴史的に実証されるような過去とはまた別の、仮想的で潜在的なものとしての前・歴史的段階について考えてようとするのが『アフリカ的段階について』だ。そして、生きている人間について考えるのが『心的現象論』だとするならば、こちらも、実証的ではない、仮想的、潜在的なものとしての「前・乳児的(胎児的)」段階、あるいは前・言語的な段階について考えようとしているのが『母型論』ということになる。

一方に、前へ向いた、現代・未来について考える『ハイ・イメージ論』があり、他方、対極的に(仮想的な思弁によってしか捉えられないような)極端な前・歴史的、あるいは、前・誕生的な過去について考えようとする『アフリカ的段階について』『母型論』があり、その中間くらいに『心的現象論』があるという感じか。そして吉本は、「現在時」からは仮想的・潜在的にしか捉えられないような、前・歴史的(前・誕生的)段階において人類が持っていた可能性が(良くも、悪くも)顕在化する場として、未来の、あり得る社会や国家を考えている。だから、始原について考えているというより、未来へと投影されるものとして、過去の可能性(潜在性)を考えているという感じだ。

(吉本の、仮想的な前・歴史的段階についての思考は、現在の人類学の知見に接続可能だと思われ、また、その「仮想的過去」について考えうることが、脱・近代以降の人間や社会について考えることの重要な資源になるという構えも、今もなお有効であるように思われる。)

⚫︎『共同幻想論』の最も大きなモチーフの一つに、「個人幻想」と鋭く逆立することのない(個人幻想を強く拘束し、抑圧することのない)、なるべくゆるい形の「共同幻想」のあり方を探るということがあるだろう。そして、何よりも最も強く人に作用する共同幻想は「死(≒死後の世界)」にかんする共同幻想である、と。だからこそ、詳細に分析することを通じて、それをどのように解体・再構築すればよいか考えることが、社会や国家について考える重要な問題となり、故に「他界論」が最も重要な章であることなにる、と(これは、ほぼ宇田亮一の本からの受け売りだ)。

仮にこの見立てが適切であるとするなら、今、このモチーフを最も深く、そして直接的に継承しているのが、山本浩貴によるホラー論ではないかと思う。