⚫︎『脳内ニューヨーク』(フィリップ・カウフマン)をDVDで。ツタヤディスカスで借りた。思った以上にどしんと重たい映画だった。
(邦題はあまり良くなくて、原題は「Synecdoche, New York」。「シネクドキ(提喩)」とは、全体・上位概念で部分・下位概念を表したり、部分・下位概念で全体・上位概念を表したりする比喩。「花見」とは普通「桜を見る」ことで「花」という全体で「桜」という部分を表している、とか、「お茶する」と言うとき、必ずしもお茶を飲むわけではないのに「飲み物全般」を「お茶・部分」で表す、など。)
初めは「アメリカのインテリって全然幸福そうじゃないんだよなあ」と、ウディ・アレンの映画でも観るような気軽な感じだったが、すぐにそんな余裕はなくなり、自分に、この映画を正気のままで最後まで見届けるだけのメンタルの強さがあるのだろうかと不安になって、とにかく、辛い辛いと思いながら最後まで観た。あまりにもシビアで、あまりにもリアルで、あまりにも複雑で、できる限りこういうことに気づかないふりで生きていきたいと思うような「現実」を常に突きつけられ、とはいえそれが「現実」だと認めざるを得ないよなあと繰り返し納得させられる続ける、というような映画だった。
この映画が示す「現実」とは、すべての人は等しく「死ぬ」のだし、そこから逃れられる人は一人もいないということで、じゃあ、あらかじめ死ぬことがわかっている「生」の中で、人は何をするの ? 、ということが繰り返し問われている。主人公は何とかして「すべての人は死ぬ」という現実に抵抗しようとするのだが、その度に、身近な誰か死が告げられ、現実が突きつけられる。
もう一つ、この映画が示す強い認識に、あらゆる人の生の現実の中に、排除しようもなく虚構の次元が埋め込まれているということがある。主人公の最初の妻は、ルーペを使わないと見えないくらい小さいサイズの絵を描く画家で、その小さな絵の中には彼女の人生が先取り的に織り込まれている(大江健三郎の「茱萸の木の教え」が想起される)。彼女はドイツの展覧会で成功し、娘も一緒に連れて行ったままで帰らない。主人公は演出家で、どうにも自信の持てなかった舞台が予想外に認められて、多大な賞金を貰える大きな賞を受賞し、その資金を用いて、巨大な倉庫に実物大のセットを組み、大勢の俳優を雇う大きな作品に着手する。まず、登場人物である夫婦間にある対照的な作品スケールの違いが、「現実の持つスケール感」を揺るがす。
通常、「作品(虚構)」は、フレームによって現実のスケールよりも小さい範囲を囲い込むことで「虚構」の次元を成立させる(その意味で、主人公の最初の妻のやり方が「通常のもの」であろう)。だが、空間的にも時間的にも「実物大」となった作品は、基本的に「現実」と区別がつかない。言い方を変えると、虚構のスケールが実物大になったことで、もともと現実が含み持っていた潜在的な虚構性が顕わになる。ここから映画に、リンチの『インランド・エンパイア』を思わせるような、虚実の識別不可能な領域が開かれていく。このこと自体が「死」への強い抵抗であろう。
しかし、虚構が実物大のスケールを持つことで顕在化した「虚実の識別不可能な領域」を破る二つの「現実」がある。一つは「現実の時間」であり、作品がいつまでもまとまらないまま、演出家も俳優たちもスタッフたちもいつしか歳をとっていく。もう一つは「死」であり、演出家の制作への努力とは無関係なところで、彼の周りの人が、一人また一人と亡くなっていく。しかし演出家は、いちいち現実に打ちひしがれ、その度うんざりするほど弱音を吐きながらも、周囲の、主に「女性たち」に支えれらて、現実に抗するように制作の努力を続けるだろう(主人公が女にモテすぎ、とは思うが、この女性たちがMPDGであるというのは違うと思う)。しかしそんな演出家も年老いて、とうとう「発想が枯渇した」と口にする。
この映画では、主人公が常に死の恐怖に怯え、うんざりするような現実、シビアな現実が示され続けるのだが、ほんのわずかに、幸福な人生を肯定するようエピソードがある。それはどれも、幼い子供の頃の幸福なエピソードと関係している。それらが、ちょっとどうしようかと思うくらい心に刺さりすぎる。特に、主人公と最初の妻との間の娘との関係には、身悶えするような感情が惹起させられる。
⚫︎この映画には、一度観ただけでは受け止めきれない複雑さがあるが、(レンタルの期限もあるが)二日続けて観るにはあまりにヘヴィーすぎる内容なので、少し時間を空けてから改めて観直したい。
⚫︎フィリップ・カウフマンは1958年生まれということなので、この映画を作っていたのは50歳手前くらいなのか。ただ、これをいわゆる「中年の危機」の反映とみるのは、作品の矮小化だと思う。