⚫︎『泳ぎすぎた夜』(ダミアン・マニヴェル・五十嵐耕平)をDVDで。ツタヤディスカスで借りた。すごくいい。
こんなに、何のケレンもなく映画のリアリズムの理念に徹底して忠実な映画も珍しいのではないか。6歳くらいの男の子と、弘前という土地(風景)があるだけの映画、とも言える。ただし、この映画の重要なキモは、男の子がとにかく「眠い」というところだ。「父を希求すること」と、それとは切り離された別の原理としてある「強くなったり弱くなったりしながら彼の身体を支配する眠気」というシンプルな二つの要素が、この映画の複雑さと豊さを生み出していると思う。
子供の身体の持つ、動きのぎこちなさとバランスの悪さ、しかし同時にある驚くべき柔軟さ。その身体によるアクションが、大人でも行動が困難と思われる雪深い土地の中(とても寒そう)で展開されていく。東北に住む人には、弘前(青森)と花巻(岩手)は違う、雑に一緒にするなと言われるかもしれないが、映画の雪深い風景を見ているとき、何度も宮沢賢治の作品を想起した。宮沢賢治が見ていた風景はこんな感じなのかもしれない、という風に。
(GoogleのAIモードで「花巻と弘前」で検索したら、《花巻ICから大鰐弘前ICまで高速道路を利用すると、約2時間19分で移動可能(料金約4,000円台)》と出て、全然遠いじゃん、と思ったが…)
父は夜中のうちに仕事に出て行く。彼は目が冴えて眠れない。トイレに行ったり、母を起こそうとしたり、おもちゃを並べて写真を撮ったりするが眠れそうもない。彼は絵を描く。そのまま朝になり、夜の間眠れなかった彼は朝食を食べながら眠り込んでしまう。それでも姉について行くように家を出て学校までは行く。しかし教室には入らずに校庭の外に出る。そこで、みかんの皮を剥こうとして手袋の片方を落としてしまう。そのまま彼は、雪の降り積もる中をぎこちない足取りで徘徊する。だが、とにかく眠い。ふらふら歩いて、雪の中に倒れたりする。体に対して不釣り合い大きいランドセルが、彼の背中にだらっと垂れ下がり、彼の動きをさらにぎこちなくさせる。そしてようやく、駅の待合室という眠る(仮眠の)ための場所を見つける。しばらく眠ってから、駅についた電車に乗って、父の職場のある市街地を目指す。どうやら、昨晩描いた魚の絵を父に見せようと考えているようだ(父は水産加工会社で働いている)。
彼は言葉を発しない。というか、この映画にはセリフがない(唯一のセリフは、テレビから聞こえてくるドラマのセリフだ)。かろうじて、鼻歌を歌ったり「ヨイショヨイショ」「おっとっとっ」と発声するだけの彼が、犬に対して吠え返す「ワン、ワン」という声が、思いがけないほどの元気の良さで響く場面が、この映画の最も素晴らしい場面かもしれない。
(『息を殺して』に続き、この映画でも「犬」が素晴らしいが、それだけでなく、彼自身が犬になる。)
彼自身(子供)にとっては困難な道行きかもしれないが、大人から見れば微笑ましいという範疇に収まる小さな冒険に見える、しかしそのような小さな冒険であっても、子供いというのはちょっとした紙一重のところで「死の危険」に接している危うい存在なのだ(あるいは、雪深い土地では大人でもそうかもしれない)、ということも、この映画は示している。ただし、わかりやすい劇的効果を狙って悲劇を導入するなどという安易なことは、この映画はしない。あと一歩で死の危険に接するところに近づきながら、ギリギリのところで踏みとどまり、彼は何とか「眠る」ための場所を確保し、そして映画の終盤のあいだずっと長い眠りを(安らかそうに)眠り続ける。
ここまでたどり着いたなら、彼はただ眠っていれば良い。あとは周りの大人が何とかする。
この映画のあり方そのものが、『ヤンヤン 夏の思い出』や『霧の中の風景』への批判的視点となっているという側面もあるかなあ、とも思った。