⚫︎昨日からもうちょっとだけ続く、保坂和志「小説的思考塾vol.23」(RYOZAN PARK巣鴨)、新刊『鉄の胡蝶に』刊行記念の会。
『鉄の胡蝶は』の前半では、「海」というのが強く意識されているように思う。また「まとめ」的な把握になってしまうが、『季節の記憶』が山(谷戸)、『カンバセイション・ピース』が家(建築)で、それらと同じようには「何」とは言えないとしても『未明の闘争』もまた「陸地(土地)」の小説であることに対して、『鉄の胡蝶に』は「海」が指向される。
《島の人間、海の人間、その人たちと陸地の、それも内陸の人たちとは思考すること、行動することの大もとが違う。大もと、根本、基盤が……全部、地面のイメージだ、地面や大地のイメージでそれは安定している。海や島の人たちはそういう風に考えていない。》
《人の営みを、大地に根をおろす、大地に構築すると考えるか、風が吹くように、海流の流れのように、潮の満ち干のようにイメージするか。》
《陸では獲物の巣はどこかにある、たいていは穴だろう、巣穴はどこかにある、魚には巣はない、魚の群れは回遊する、海は陸地のように固定じゃない、日替わりだ(…)》
「海の人」は、水平線の向こうに陸が見えるからその陸を目指して船を漕ぎ出すのではなく、見えなくても、ただ「漕ぎ出す」。あるいは、意思を持ってどこかへ向かうのではなく、漂流と漂着によって、たまたま、偶発的に移動する。そのようなイメージが、固定した配置と構築としてある「陸地」的な思考に対置される。
このことと、トークで語られた、ルールを守らないのではなく、ただ「守れない」という話はどこかで通じるように思う。何ができて、何ができないのかは人によって違うし、あなたが基盤としているルールをわたしが共有しているとは限らない。
⚫︎特に保守的だとか、権威主義的だというわけではないとしても、ナチュラルに「ルールを守る」側の人がいる、と。それに対して、ルールを守れない人がいる。「守らない」ではなく、たんに「守れない」。人にはできることとできないことがある。たとえば時間をも守れない人は、理由があって守れないのではなく、ただ守れない。しかし、ルールの側にいる人は、それを斜に構えた態度、あるいは反抗的な態度として捉える(そんな簡単なことが「できない」はずはない、だから「社会秩序」への「抵抗」として「守らない」のだ、とか)。いやいや、単にだらしないからできないんですよ、と。
ここに、モダニズム芸術と現代芸術の違いがある、と。モダニズムは、特に「できる」人が一般の人に対して規範的なものを見せるという側面があった。しかし現代芸術は、むしろできない人が「できない」というあり方を示す。普通は人がしないような失敗をわざわざやってみせるようなところがある。「やってみせる」と言っても挑発的に失敗するのではなく、いや、どうしてもできないんすよ、なんかこんな感じになっちゃうんす、的なことだ。たとえば小島信夫には、なんでこんな単純なことがすんなり伝わらないのか、ということがよくあった、と。なぜそんなところで引っ掛かるかわからないようなところで、いちいち波風がたって面倒ごとが起こる。でも、その感じが小島信夫だ。
(で、そのことが結果として、人間の思考を制約している「縛り」の外に出ることにつながる。みんなが使っている普通の言葉は、実は全然普通ではない、ということを示す。)
ここに「抵抗」という語の危うさがある。左翼でインテリの人は「抵抗」と言いがちだが、「たんにできない」ことを「抵抗」と解釈するのは一種の搾取でもあるのではないか。これは保坂さんがそう言ったのではなく、ぼくが思ったことだ。そしてこの「たんにできない」の対極にあるのがラカン的な「欲望」で、たとえばラカンの大好きなアンティゴネーとかがそうだ。ラカンが「自分の欲望に譲歩するな」というとき、それは徹底して「抵抗」しろと言っている。欲望とは抵抗の根拠であり、「欲望を譲歩しない」ということはもう快楽とも幸福とも関係がない。欲望には根拠がないが、その根拠のない欲望に徹底して準拠し、欲望を譲るな(つまり「抵抗しろ ! 」と)。これが悲劇の強度であり、人間としての「生」であり、アンティゴネーである。ここにラカンの輝き(魅惑)とキツさ(苦しさ)の両方がある。たとえばベケットはそうではない。ベケットは「いや、やれと言われてもどうしてもできないんすよ…」の方だろう。
(この件についてトークの後に西川アサキさんと少し話したのだが、最初は確かに「たんにできない」のだけど、それに対して「なんでできないんだ ! なんでできないんだ ! なんでできないんだ ! 」と詰められると、次からはどうしてもその「できない」に「抵抗」の感じが乗っかってしまうということを言っていて、まあ、それはそうなんだよな、とも思った。)
ナチュラルにルールの側にいる人に対して、悲劇の強度を生きる(欲望に準拠して徹底して抵抗する)ことと、いや、やれと言われてもできないことはできないんす、と、ぐだぐだになる、ぐだぐだである、ということとの間には、けっこう大きな違いがある。
(まだ序章しか読んでないが、『汝の「欲望」に従って行為せよ』(桑原旅人)には、雑な要約だが、「欲望」を支えるのは「憎しみ」であるというようなことが書かれていて、まあそうね、そうなるよね、それは確かにそうなんだけど、それってきっつくないかなあ、と思ってしまうのだ。「譲歩せずに欲望に従え」というのは一種のエリート主義でもあって、いや、そうは言っても従いきれないっす、からだきついっす、辛いっす、腹も減ったっす、ということもあるのではないか、とか。)
「ルールに従え」と圧をかけてくる力に対して、「海の人」と「たんにできない人」と「欲望の人」とでは、それぞれ対し方が違うのだが、それは「別のあり方」がいろいろあるよ、ということでもある。
(追記。ラカンについて述べたことは、保坂さんの話ではなく、ぼくの感想です。そもそもこの日記はトークの正確なレポートではないということを付け加えておきます。)
⚫︎トークの最後はメルヴィルの話。メルヴィルは最初の本(『タイピー』)が売れた。しかし、のちに書いた『白鯨』は売れなかったし批評も悪かった。その後ずっと不遇だったが、それでも書いた。彼にはずっと「書きたいこと」があり続け、それを書いた(書きたいことがずっとあり続けた、ということが重要)。『白鯨』が不評だったから小説家を辞めたメルヴィルは存在しない。