2026/05/29

⚫︎鴻池留衣の本が出るということなので、未読だった「フェミニストのままじゃいられない」(「文學界」2021年12月号)を読んだ。とても面白かった。

今、時間と気合をかけてこの日記を書く余裕がなくてガッツリ書けないのだが、こんなにも、まったくどこにも着地しない小説ってある ? 、と思った。読み終わって、え、となって、ぽかーんとするしかない。「すみれにはおばけが見えた」のような、強烈な悪と秘密(嘘)と背徳の感触があるのではなく、ただ、ぽかーん、となるしかない宙吊りに放置される。タイトルからするとあたかもフェミニズムを挑発するかのような小説と思うかもしないが、挑発とか風刺とか皮肉とか、そういうわかりやすい落とし所はない。

(そもそもなぜこのタイトル ? 、という疑問も解決しない。)

と言っても、ただ肩透かしを喰らわすことを狙っただけの、「外し」だけの小説というのでもない。中身がびっしりと詰まって、かつ、細部同士の結びつきや相互反映がみっしり仕掛けられていつつ、しかしそれらがどこにも着地しない。伏線は回収されなければならないという思い込みからの自由。。

これだけのものを構築するのは相当大変なはずで、苦労してここまで作り上げたものを、どこにも着地させないままで終結させるという大胆さ。内容は下世話だが、このような行為そのものは(戦争と独断支配の時代においてなお一層)「尊い」と言える。

どこにも着地しない(着地することを拒否している)この小説について、それでも何か意味ありげなことを言うとするなら、これは「演劇」についての小説であり、全体としてとても興味深い「演劇論」になっていると思う。内容は下世話だが(二度言った)、演劇論としてはとても真面目なものではないか。

(そして、演劇こそが、あらゆるフィクションの基盤である、という小説でもあると思った。)

⚫︎この小説は、「わがままロマンサー」(「文學界」2020年12月号)と「すみれにはおばけが見えた」(「すばる」2023年3月号)とのあいだに書かれたのだが、この三つの作品の展開のあり方も納得できるものだ。正確には、「フェミニスト…」と「すみれには…」の間に「じゃじゃ馬ロマンサー」(「文學界」2022年4月号)という短編があるのだが(未読)。

⚫︎鴻池留衣の作品は、デビュー作の「二人組み」をとりあえず例外として、二作目の「ナイス・エイジ」から四作目の「最後の自粛」までが第一期と言えて、次の五作目の「わがままロマンサー」からやや作品世界が変わる。第一期の作品はいわば陰謀論的世界で、これは、身近にある出来事の不透明性や他者への不信(不信というと大袈裟で「疑い」くらいか)の連鎖が、はじめは小さな範囲で起こっているのだが、それが途中で世界全体にまでいきなり拡張される。この時、世界全体(世界像)がいかがわしくて薄っぺらなものとして立ち上がる。パラノイア世界構築とその失調、と言うのか。しかし、「わがままロマンサー」からは、身近にある出来事の不透明性や他者への「疑い」は、世界全体へと拡張されることなく、あくまで「小さな範囲」にとどまる。そこでは、世界の薄っぺらさの手触りよりも、秘密、嘘、裏切り、悪といったインモラルな感触が濃厚に漂い、そのような環境で、立場の逆転や、位置(役割)の交換、意味の転倒、文脈の転換などが頻繁に起こるようになる。奇妙な薄っぺらさ(平板さ)を持つ世界のリアリティから、不透明な関係が、不透明なまま緊密で錯綜した迷路として構築される世界になる。

(「わがままロマンサー」以降は、デビュー作への、大きく形を変えた回帰、という感じもある。)