●『虚構の「近代」』(ラトゥール)第二章の空気ポンプについて。これはどうも、準モノの具体例というより、近代初期(17世紀)において、そもそもハイブリッドなものとしてある「空気ポンプ」をめぐって、政治(人間、社会、主体)的な言説と科学(非人間、自然、物)的な言説とがどうすれ違い、分離していったかということの例示であるみたいだ。ホッブズとボイルという二人の登場人物。
ボイルは、自らが開発した実験装置によって透明なガラス容器のなかに真空をつくることに成功した。それに対しホッブズは政治的理由から真空の存在を否定した。
《ボイル同様、ホッブズも市民戦争を終結に導きたいと考えていた。聖職者や庶民が聖書に加える自由解釈を一掃したかったのである。そこでホッブズは、その目標を身体政治学(ボディー・ポリティックス)による統合を通して達成しようとする。「「永遠の神」のもと、私たちは社会契約が作り出す君主、つまり「死せる神」に平和と防衛を委ねている」。ただ君主は大衆の代理人に過ぎない。「国家という身体Personを一つにするのは代理の統合であって、代理される人々の統合ではない」。ホッブズは市民を創作者(彼の言葉でいえばAuthors)とし、市民の代理で行為する者を国家身体Personと定義した。(…)そうした統合さえあれば超越者など必要ではない。現世権力によって虐げられたとき、おそらく市民は超自然的存在に訴える権利を思い出すだろう。ただそうなると、超自然的存在がある限り市民戦争は荒れ狂うことになる。》
《(…)ホッブズは、プラトンの哲人王が行うような”超越的な計算”は行わずに、純粋な計算装置、機械的な脳、今日でいうならコンピュータを用いて証明を行うことにした。あの有名な社会契約ですら、恐怖に駆られた市民が自然状態からの解放を求め、俄かに、しかも同時的に行う計算の総和というに過ぎない。(…)そこには超越的な存在の介入は一切ない。神、活性化された物質、帝王の神権、数学的イデアのどれに訴えることもないのである。》
●つまり、そのようなヴィジョンにおいては真空などという「超自然的な存在」は認められない、と。このように、一切の超越性を厳密に排除しようとするホッブズのいわば科学的な政治性に、ボイルは政治的な科学性によって対抗することになる。
《彼は、論理学、数学、または修辞法ではなく、超司法的隠喩に主張の根拠を求めたのである。実験の場に集まった信頼できる裕福な証人たちが、まさにその場で起きている事実について証言する。証人は事実の真の性質など知る由もないがそれでもかまわない。(…)ボイルは同席させた紳士に意見を求めたのではない。実験室という保護された閉鎖空間で生じる人工的な現象の観察を求めただけである。(…)事実は、実験室の新たな仕掛けの中で、空気ポンプという人工的な媒介手段を借りて作り出される。》
《ボイルは何か新しい道具を持ち込んだということではない。そこでは学者、僧侶、法律専門家、書記が一〇〇〇年以上かけて発達してきた道具がつかわれている。新鮮なのはその利用法である。以前、証人は人間か神でなければならなかった。非人間が証人だなどと、到底考えられる話ではなかった。(…)それがいまや実験室で、非人間の振る舞いが真正面から取り上げられ、実験室自体が法廷になったも同然の状況となっている。》
●空気ポンプ、実験室、信用できる紳士たちの証人、これらを組み合わせによって構成されるある装置(媒介)によって、「真空という事実」が作り出される。ここにおそらく、ラトゥールの言う、それ自体として自然でも主体(社会)でもないハイブリッドの状態がある。
《もし科学が、日常のあり様、実践、実験室、そしてネットワークに根ざしているなら、それを近代の構図のうちどこに位置づければよいのか。純粋な”モノ”の側でないことは確かである。事実は「作られる」からだ。ただ主体の側に置くこともできない。(…)それらは私たちが希薄な空気をもとに、あるいは社会的関係、人間カテゴリーによって作り出したものではない。(…)二極の混合、つまりハイブリッドでないか。》
●では、もし科学(が「作り出す」「事実」)がこのように、《思考ではなく実践》に、実験室の《外側ではなく内側》に、そして《実験コミュニティの私的空間》に位置づけられるのだとしたら、そのようなローカルなものがどのようにして普遍的な事実として「あらゆるところ」へと広がってゆくのか。ラトゥールの答えは驚くべきものだ。
《実際には「普遍法則になど決してならない」のである。少なくとも認識論者の言う意味では決してならない。ネットワークは拡大し続け、やがて安定していく。(…)真空ポンプのそれぞれの型式がヨーロッパ中で再生産され、続いて、そう信頼できるわけでもない高価で複雑に入り組んだ装置が徐々に廉価なブラックボックスに改変されていき、やがては広まって、すべての実験室の標準装備になっていく。シェイビンらはそのような事実経過を辿ることで、物理学の一法則が普遍的に適用されていく過程を明らかにしたのである。(…)空気バネについてのボイルの解釈は間違いなく伝播していく。ただその伝播の速度は、実験装置が各所に導入されて実験者コミュニティが形成されてゆく速度にぴたりと符合する。実践のネットワークから抜け出すことができる科学などどこにも存在しない。》
●一方に、ホッブズの科学的な政治性があり、もう一方にボイルの政治的な科学性があり、この二つ(の「代理制」)が交差的にすれ違うところに近代の「憲法」がはじまる。
《ボイルは科学の言説だけを作り出したわけではない。ホッブズもただ政治の言説を書き連ねたわけではない。ボイルは同時に、政治を排除する政治的言説を産み出し、ホッブズは彼なりの科学政治をイメージして、実験科学をそこから排除すべきだと主張した。つまりそれは二人が近代世界を創り出したということだ。実験室を媒介とした”モノ”の代理制と社会契約を通した市民の代理制が永久に交わることのない世界を創り出したのである。(…)ホッブズやボイルの時代以来これまでずっと、ものごとを”二重に”見る義務を負わされてきたということである。言い換えれば、非人間の代理と人間の代理との間に、つまり事実という人工物と身体政治学という人工物との間に、直接的な関係を打ち立てることができなかったということであり、あるいは、”代理”という言葉は同じなのだが、ホッブズとボイルの論争が原因で、言葉の二つの意味に類似性があることがまったく理解されなかったということである。》
●このような議論は、「すべてが政治的である(あらゆることに政治性が絡んでいる)」という単調な議論とは異なる点が重要(それはたんに政治の優位を宣言しているだけ)。政治に汚染されていないモノなどないのと同様に、モノに支えられない政治もない、ということ。そして、政治もモノも「結果」であり、まず最初に、ネットワーク上の結節点として生まれるある混合物(準モノ、準主体)があり、それを孕むのが媒介の力だ、と。