●以下は「現代思想」12月号からドミニク・チェンの引用。なるほど、その通りだなあ、と思うと同時に、しかし、本当に「人間」というのはそんなに「創造的な存在」なのだろうか、という疑問もなくもない(最近、人間不信というか「人類不信」なので…)。
《私たちは近い将来、有機珈琲や有機野菜と同じような意味で、有機アルゴリズム有機レコメンデーションというように、情報処理の品評を行うようになるのかもしれない。目の前に呈示された情報がどのような機械学習やソーシャルレコメンデーションの経路を辿ってきたのかというトレーサビリティを、そのユーザーの自律的な情報摂取をどれくらい尊重しているのか、またそこからどれほど新しく有意義な表現を生むのかということをリアルタイムに評価し、可視化する技術が仮に生まれるとすれば、それはさながら食品トレーサビリティやフェアトレードにおける物品の流通経路の透明性と同じような価値を持つのかもしれない。食料メタファーをもう少し続けてみると、料理というコミュニケーションもまた非ゲーム的なコミュニケーションであることを思い出す。そこでは利他と利己の両方の動機が協調しながら、参加者それぞれの価値の発見や気づきが個の膜を越えて共有される。そこには「試す価値のある試み」があり、試みの失敗も成功も有意義なコミュニケーションの素材となる。》
《そのために私たちはそろそろ個々人の情報の摂取の方法ではなく、情報の表現の方法をこそビックデータ型人工知能とひも付けて作っていかなければならないだろう。読むことがただ読むだけに終わらず、書くプロセスに連なるための情報技術としてのインターネットやIoTのビジョンを打ち出す必要がある。インターネットのハイパーテキスト文書、Wiki、Gitというオープンソース的表現の強力な技術の系譜はこの目的のための筋道を示しているし、二次創作がさらに一般化すれば、私たちは日常の中のささいな会話の中に潜む創造性の微かな徴に相互に気付き、増幅するようになるだろう。悲観論と楽観論が常にバランスの問題であるのと同様に、情報の総体的な摂取量と表現量もまた人間にとって最適な平衡を定義しようと試みることができる。ただ、その人間とはいったい誰のことなのだろうか? それもまた、私たちが常に立ち返るであろう命題なのだと思う。》
(「Cybernetic Serendipity 再考」)