●ベクショニズムのメンバーで、ギャラリー・コエグジスト・トーキョーの井上実展を観に行き、トークを聴いた。メンバーで既に井上実の作品を観ていたのは西川さんだけだったけど、他の人も驚いていた。特に、柄沢さんが昂奮しているように見えた。
http://coexist-tokyo.com/inoue2/
井上実の作品の強さは、「観れば分かる」というところにあると思う。文脈とか理論とかを事前に用意する必要はない(事後にそれらがあることは別に拒否しないと思うけど)。例えば、『君の名は。』がすごいのは観れば分かる。日本語が分からなくて、物語が理解できないとしても、その画面が他とは違っていて、すごいことは分かる。そのすごさが、ハリウッド映画のような大金をかけた豪華さとも違うし、ジブリ攻殻のようなこれまでの日本アニメとも違うことは、観れば分かる。具体的にどう違うのかは言えないとしても。
例えば、セザンヌの作品というのも、同時代にはそのようなものだったのではないか。セザンヌの晩年、若手の画家たちがその作品を礼賛したのは、なんかよく分からないけど、他とは決定的に違うし、すごいことは分かる、ということではなかったか。現在のように、セザンヌに関する研究や言及があるわけでもなく、なにがどのようにすごいのかはみんなあんまり分かっていないけど、でも、すごいということだけは確実に分かる、と。その感じが、美術史的に整理されてしまっている今では、かえってよく分からなくなっているのではないか。でも、芸術というのは本来、そういうものや状態をつくるということなのではないか、と思った。
●井上くんは長い知り合いだけど、こういう機会に聞いてはじめて知ることも多い。「自分は絵画なんか別に好きじゃなかった、ただ描くことだけが好きだったんだということに、四十歳を過ぎてようやく気が付いた」「絵画にしなきゃいけないという枷で、やりたいことを見失っていた、別に絵画じゃなくてもいいという踏ん切りがついた」「受験生の頃、デッサンが大好きで、デッサンはいくらでもつづけられたけど、油絵具を使うととたんに描けなくなった。ここへきて、ようやく油絵具で描くという感じがつかめた」等々。
●以下に、東京新聞の、11月25日の夕刊に書いた、井上実展レビューを載せておきます。

全体と部分とがどこまで細かく見ても同じ構造をもっている図形をフラクタルという。近似的なフラクタル構造は、リアス式海岸の海岸線やブロッコリーの形、腸の襞の構造など、自然界の様々なところに見出される。フラクタル図形は、マクロへ、ミクロへと見るスケールを変化させても特徴が変わらないので、通常のスケール感の足下を崩され、眩暈のような感覚を生む。
フラクタル構造とは異なるが、井上実の絵画にみなぎる強い充実感は、スケールや感覚を転倒させるような多層構造が作られているところからくると思われる。モチーフは、一辺二、三〇センチ程度の範囲の小さなスケールの折り重なる植生で、それが一辺一、二メートルの大きな画面へ拡大される。点描のような小さなタッチの集積で描かれるが、スーラなどの光学的点描とは異なる。キャンバスが透けるほどの薄塗りで、タッチの大きさにばらつきがあり、タッチの集積の粗密さも均質ではない。植物の重なりは執拗なまでに詳細に再現されるが、写真のようなリアルさが目指されているのではない。
大きな画面が小さく繊細な薄塗りのタッチで埋め尽くされ、庭の片隅にあるようなささやかな植生が、拡大されて詳細に描かれる。抑制された色彩による一つ一つのタッチは、桜の花びら一枚のようにささやかだが、大画面を埋め尽くすそれは桜吹雪のように圧倒的だ。描かれるのは片隅の植物だが、拡大されたそれはまるで妖怪や精霊や動物の霊気などが密集する森の奥のようでもあり、濃密である。画面には植生が細密に描かれているが、それは同時に、繊細な色彩のリズムがつくる抽象絵画のようでもある。
小さいと同時に大きく、ささやかであると同時に圧倒的で、静かであると同時に騒がしく、細密画であると同時に抽象画である。アニミズムの森のようなみっしりとした植物の重なり合いが、実は片隅の野草の姿であること、生命が横溢する饒舌な画面が、実は繊細で抑制された薄塗りのタッチでつくられていること、騒がしく過剰なものが、実は静かでか弱いものたちによって支えられていること。
井上実の絵画には、性質が逆であるものが互いに相手を支え合う多層構造があり、それらが同時に響くことで、充実した視覚体験をもたらす。