勁草書房のウェブサイトでアニメについての連載を一年半ちかくつづけているけど、それももうすぐ終わる予定。アニメ的な表現についてというより、アニメによって描きだされる世界の構造(物語の構造)を分析しながら、科学やテクノロジーの時代における物語(虚構、フィクション)のあり得る位置や意味を探る、という感じでやってきた。
三週に一度の更新で、目安として一回分が八千から一万字くらいの感じで書いていて、だからこの一年半くらいは、常に頭のどこかにこの連載のことがあるという状態だった。アニメについて書くようになって、逆に、以前のように深夜アニメを浴びるように観るという感じではなくなった(書く対象となるアニメをじっくり観る---観直す---必要があるので、それにけっこう時間をとられる)。
ずっとアニメのことを気にして生活してきたのだけど、でもぼくは、アニメにだけ興味があるわけではない。映画や小説やアートなど、他の芸術にも興味がある。そしてそれらもまた、科学とテクノロジーの荒波にさらされている。
今回の連載は、この世界の様々に複雑なあり様とフィクションとの関係を、アニメという限定された窓から覗いてみたらどう見えるか、という感じだった。「アニメ」というものが、そのような窓としてとても有効だと思ったから。だからこんどは、ある特定のテーマから、今日の様々な芸術のあり様や、世界のあり様を考えてみるという本が書きたいという気持ちが出てきた。そしてそのテーマとしてふさわしいのが「幽体離脱」ではないかと考えはじめている。これは前から考えている、メディウム・スペシフィックではないフォーマリズムということでもある。「幽体離脱の芸術論」のような本が書けないだろうか、と。
そのためにはまず、「幽体離脱」という主題がなぜ重要なのかについて、人を説得する必要があるのか。その重要なヒントが、OOO(オブジェクト指向存在論)やSR(思弁的実在論)、存在論的転回以降の人類学にはあるのではないかと思っているのだけど。