⚫︎「後期クイーン的問題」とは、次のようなことだった。(1)探偵は作中世界に住む作中人物であるから、自らの住むその世界で起きた事件を「閉じる(収束させる)」ことができない(「閉じる」ためには、作品外からのメタ的な介入が必要)。(2)世界が閉じていない(「事件」の及ぶ範囲内を確定できない)以上、探偵が「手持ちのデータ」を使ってどんなに完璧な推論を行ったとしても、それは、「作者の恣意」によって、後付け的(後出しジャンケン的)なフレーム操作で、いくらでもひっくり返すことが可能になってしまう(メタ犯人、メタメタ犯人、メタメタメタ犯人…、作者の匙加減一つでどんでん返しはいくらでも可能)。あるいは、どこかに推論だけでは決定不能な事柄がどうしても生じてしまう(たとえば、容疑者に心理的トリックなどを仕掛けて騙し討ち的に「検証」しなければシロクロつけられないことがある、など)。ゆえに、作者と読者とのフェアな謎解きゲーム空間としての本格ミステリは原理的に成立しない。
このような問題は、90年代後半からゼロ年代にかけて、日本のミステリの世界では広く共有されており、「この問題をどのように回避するのか」という課題から、数々のユニークな作品が生まれた。しかしこの問題は原理的な問題なので、基本的には「解く」ことができない。だから、多くの実作においては、この問題をどのように「誤魔化すのか」ということが主眼となる。どのような「面白い誤魔化し方ができるのか」ということだ。
しかし、問題を誤魔化すのではなく、問題そのものを正面から捉え、本格ミステリという構え(目的・理念)を採用し、それを実直に遂行することで、逆にそれが瓦解していく様をパフォーマティブに示すような作品がある。そもそも本格ミステリの創始者とも言えるエラリー・クイーンがすでに、本格ミステリの理念が瓦解していく様をまざまざと演じて見せている『シャム双子の秘密』という作品を書いている(ゆえにこの問題は「後期クイーン的問題」と呼ばれる)。そして、それをもっともっと大々的、徹底的、露悪的に、仰々しく行ったのが、麻耶雄嵩の『翼ある闇』であり、『夏と冬の奏鳴曲』であろう。
ぼくなりのバイアスがかなりかかっているが、『現代本格ミステリの研究 「後期クイーン的問題」をめぐって』(諸岡卓真)に書かれているのは、そのようなことだ。
しかし、この本では触れられていない、「後期クイーン的問題」を回避するやり方がある。それは、作品内に「神」を登場させることだ。「神」は、作中人物でありながら、作中世界では全知全能であるから、事実上「メタ視点」を有している。だから、「神」は事件の影響範囲を確定することができるし、犯人を断定することもできる。
(しかし、「神」が出てきたらもうゲームは成り立たないが。)
ぼくが知る限りで、「神」が出てくるミステリは二つある。一つは麻耶雄嵩の『神様ゲーム』と『さよなら神様』で、もう一つは、森博嗣の「四季」シリーズだ。だがこの二つは随分と違う。麻耶雄嵩の「神」は端的に神だが(麻耶雄嵩の「神」はメルカトル鮎の延長線上にあるのかもしれない)、森博嗣の「四季」シリーズの真賀田四季は人間である。人間だが、あまりにも飛び抜けて優秀なので事実上全知全能である(あらゆる人間に対して優位であり、あらゆる人間を出す抜くことができる)かのように書かれている。ゆえに、人間(オブジェクトレベル)であり、同時に神(メタレベル)であるという「矛盾」が、より色濃く出ている。
で、これはつまり「内部観測」の問題なのだな、と思う。
(この問題の最初の提唱者である法月綸太郎は、柄谷行人を引きつつ「ゲーテル的問題」として捉えているが、「内部観測」の問題と捉え直して考えた方がいいのではないか、と。)
(追記。これが「内部観測」の問題になるのは、登場人物として「神」が登場したときに限る、のか。)