2025-07-10

⚫︎3日の日記に書いたが、ル・コルビュジエの「小さな家」には、完結性と完成度の高い平家(母屋)部分とはやや異質な、間取り図にも書かれていない、後からぽこっと取り付けられたような半二階みたいな空間がある。磯崎新の『栖十二』の第二信「母の小さい家 ル・コルビュジエ」によると、この部分は実際、後から付け加えられたのだという。

コルビュジエは1954年に、この家に関する小冊子『小さな家』を刊行する(家が出来たのはその30年前の1924年)。冊子には、コルビュジエ自身が描いた下の図が掲載されている(『小さな家』森田一敬・訳より)。

Wikiarquitecturaにある間取り図も同様だ。

(画像は https://en.wikiarquitectura.com/building/villa-le-lac/#よりスクショ。)

 

これについて磯崎は以下のように書いている。

《この住宅のプランを独自のタッチでスケッチしたのが、小冊子の表紙に載っている。これが三〇年後の出版に際して描かれたことは明白で、後期の骨太のスタイルです。だが、一九五〇年頃の状態ではなく、建設当時のものです。》

《平面の完結性を表示するために、ここでは後年改造された二つの部分が省略されている。戦略的省略というべきか。ここに、ル・コルビュジエの仕事の秘密が潜んでいるといっていい。「緑の部屋」と呼んでいる東側の庭。それに西北の一隅に持ち上げられるように付加した一室。これらは一九三〇年、背後に現在のような自動車道路ができた機会に付加された。》

ここで、(家が完成してから六年後の)1930年に付加されたといわれているのは、以下の二つの部分だ。

(画像は、https://www.youtube.com/watch?v=C_79me5yM2s 、と、クーグルアースよりスクショした。)

それぞれの空間について、磯崎は以下のように書いている。

《「緑の部屋」こそ、この敷地内でもっとも成功した空間です。西側にポーチがあり、三方が背丈より高い石壁で囲われている。湖側には正方形の開口部が切り取られ、コンクリートのテーブルがつくりつけてある。戸外での食事やお茶を飲む場所。道路側には三段の階段があり小さい開口部がつけられる。犬がのぼって外を見るためだと説明される。そして、いまでは樹木が大木に育った。緑が覆って、屋根になっている。部屋をつくるのに完全に囲い込む必要はない。人工的な石壁とポーチがそれぞれ自立したまんまで、四周をおさえる。そこに部屋=空間が生まれる。だがここに自然としての、緑と湖が加わって、初めて完成する。犬がいる、母親がいる。ル・コルビュジエ本人を加えた家族や友人のグループ写真が残っている。それが生活だったのでしょう。》

《いま、コルビュジエ財団の管理になっていて、近くに住む婦人がボランティアで案内してくれる。ル・コルビュジエ夫妻が泊まるために付加されたといわれるもうひとつの省略の場所を案内してもらいました。急階段をのぼると修道院の個室か刑務所の独房ぐらいの部屋がある。スチールパイプ製の二段ベッドが置かれている。》

《これがル・コルビュジエ本人が自分のために設計したという証拠はあります。この部屋は半階強持ち上げられたに過ぎないので、母屋ごしに窓をつくると高い位置にしかとれない。そこで、下を収納にした段をつくり、そのうえに机と椅子が置かれている。椅子にすわると窓ごしに、空がみえる。こんな芸当をやって執筆しているとすればル・コルビュジエ本人しかいない。この二段ベッド、三等船室でしょうか。オリエンタル・エクスブレスでしょうか。ともあれキャビンです。》

⚫︎奥行きが狭いが横幅がとても広く、湖に向かって水平的な開口部を持つ、回遊性の高い母屋(年老いた母の生活)。天井がなく、広い平面を持つ、外に開かれた「緑の部屋」(家族が集う)、そして、独房のようなキャビンのような、狭くて閉ざされた(アクセスの悪い)、窓の小さな宙に浮いた小部屋(コルビュジエ、またはコルビュジエ夫婦のための閉じた空間)。これら、それぞれ異質な空間が、完全に秩序だって統べられているのでもなく、しかし、接合の不連続性(あるいは断片性)が強調されているわけでもなく(必然性によってでも、偶発性・恣意性によってでもなく)、絶妙な塩梅で結び付けられている。この「絶妙な塩梅」こそがコルビュジエの能力(作家性 ? )で、それによって、独特の空間の豊かさと同時に、連続性でも不連続性でもない、時空の「ねじれ」が出現するのではないか(これはぼくの意見で、磯崎がそう書いているわけではない)。わざわざ後から付け加えてでも、それを実現したかった、のでは ? 。

(そのような作家としてのコルビュジエ的な感覚と、彼が主張する、普通によく言われている「近代建築のマニュフェスト」とは実は食い違っているのではないか。だからこそ、後から付け足した部分は(表向きには)戦略的に隠しているのではないか、と。)

⚫︎パーソナルなスペースの、この独特な狭さも、コルビュジエ的だなあ、と。