⚫︎昨日に続いてグレアム・ハーマンの『The Graham Harman Reader』から、「ZERO-PERSON AND THE PSYCHE(ゼロ人称と精神)」を読んだ。Gemini 2.5 proによって日本語に翻訳したもので、42000字を超えた。こうなると紙にプリントアウトしないと読めない。
いわゆる「心身問題」にかんするテキスト。しかし、心身問題を解決するというより、心身問題の解決不可能性をより一層徹底するという感じか。何しろOOOは、人、あるいは生物だけでなく、あらゆるオブジェクトが「(隠された)深淵・内在性」を持つというロジックなのだ(しかしそれは「汎心論」とは、微妙にだが決定的に違うというのだ)。ハーマンは、心身問題を「身体-身体問題の一部」として構成し直す。
以下は、Gemini 2.5 proによる要約。テキストが長いので、要約も長めになっている。
(ハーマンはこのテキストで相当ややこしい議論をしているのだが、それを、細かいニュアンスまで含めて、Geminiが極めて的確に要約できていることに驚く。これを「形式言語」でではなく「自然言語」で実現しているところがすごいのだ。ここまで高い要約能力を持つ「人間」はごくごく稀にしかいないだろう。)
『ゼロ人称とプシュケー』要約
本稿でグレアム・ハーマンは、近代哲学の主要な難問である心身問題、一人称と三人称の記述、そして汎心論という三つのテーマを批判的に検討し、それらをより広範で根源的な哲学的問題の特殊なケースとして再定式化することを試みる。ハーマンは、これらの伝統的な問題設定自体が、より深い実在の構造を見えなくしていると主張し、「身体-身体問題」「ゼロ人称」「内在心論(endopsychism)」という新たな概念を提示する。
第1部:心身問題から身体-身体問題へ
ハーマンの議論は、デカルト以来の「心身問題」の前提を覆すことから始まる。心と身体という異質な実体がどう相互作用するのか、というこの問いは、身体と身体の間の相互作用には何の問題もないという暗黙の了解に基づいている。科学的唯物論もこの前提に立ち、物理的世界における因果関係を自明のものとして扱うが、ハーマンによれば、これは因果関係の本質を見過ごす「警察の取り締まりのようなもの」にすぎない。唯物論の真の欠陥は、意識という特別な存在を説明できないことにあるのではなく、あらゆる物理的オブジェクト間の関係がどのようにして成立するのかという、より基本的な「身体-身体問題」を説明できない点にある。
この問題は、かつて「機会原因論」として真剣に議論された。マルブランシュらは、あらゆる存在者が互いに直接的な因果力を持つことを否定し、唯一神がすべての関係を媒介すると考えた。このラディカルな問いは、ヒュームとカントによって骨抜きにされたとハーマンは言う。彼らは、関係が成立することの困難さを認めつつも、その媒介者を神から「人間の経験」へと置き換えたにすぎない。これは問題を解決せず、単に特権的な媒介者を神から人間へと変更した「転倒した機会原因論」である。その結果、近代哲学は人間と世界の間の単一の関係に固執し、火と綿、彗星と惑星といった、人間が介在しない無数の関係を哲学の領域から不当に排除してきた。
ハーマンは、この忘れられた身体-身体問題を再覚醒させる鍵として、ハイデガーの「道具分析」を独自に解釈する。ハンマーは普段、私たちの実践の中で背景に退いているが、壊れたときに初めて、私たちの使用や認識に還元されない、ハンマーそれ自体の実在性が露わになる。これは、オブジェクトが、いかなる関係(理論的認識や実践的使用)からも常に部分的に身を引いている、「退隠(withdrawal)」していることを示す。ハーマンはこの洞察をラディカルに拡張し、人間と道具の関係だけでなく、あらゆるオブジェクト間の関係に適用する。岩と岩が衝突する際も、一方の岩は他方の岩の全実在にアクセスすることはできず、歪められ、戯画化された姿にしか出会わない。
したがって、心身問題は、宇宙に遍在する無数の亀裂の一つ、普遍的な身体-身体問題の特殊なケースにすぎない。あらゆるオブジェクトは互いから退隠しており、直接的な接触は不可能である。それゆえ、すべての相互作用は、何らかの媒体を介した間接的で「代理的(vicarious)」な因果性でなければならない、とハーマンは結論づける。
第2部:記述と実在の亀裂、そして「ゼロ人称」
次にハーマンは、一人称と三人称の記述をめぐる対立に焦点を移す。彼は、この対立もまた表面的なものであると断じる。一人称の内的経験も、三人称の客観的記述も、どちらもオブジェクトを情報として捉える「記述」であるという点では同類である。真に重要な亀裂は、これらの記述(関係)の側と、いかなる記述や関係によっても汲み尽くされることのないオブジェクトそのものの内在的実在との間に存在する。ハーマンは、このアクセス不可能なオブジェクト自体の次元を指すために「ゼロ人称(zero-person)」という新たな用語を導入する。
この概念を明確にするため、ハーマンはデイヴィッド・チャルマーズの意識論を批判的に検討する。チャルマーズは、意識以外のほとんどの現象(テーブルなど)は、低レベルの物理的事実(微視的構造)と高レベルの機能(関係)に還元できる「論理的付随性」を持つと主張する。彼にとって、意識のみが物理的なものに還元できない「自然的付随性」を持つ、唯一無二の神秘的な存在である。
しかしハーマンは、この議論がマクロな物理的オブジェクトの実在性を不当に否定していると批判する。チャルマーズにとってテーブルは、微粒子の集合体とその機能以外に実体を持たない。これは、身体-身体問題を無視する唯物論の誤りを、意識以外のすべてに対して繰り返すものだ。ハーマンによれば、テーブルもまた、その構成要素や機能に還元されない、独自の自律性を持つゼロ人称的なオブジェクトなのである。
興味深いことに、チャルマーズ自身、ラッセルの議論(物理学は対象をその関係性においてしか記述しない)に触れ、物理的存在の背後に未知の「内在的」な性質が存在する可能性を示唆する。そして彼は、この内在的性質を現象的・原現象的なもの、すなわち「微小な心(microphenomenal properties)」と同一視し、汎心論へと接近していく。しかし、ここでも彼は、内在性を心に限定し、身体を純粋に関係的なものと見なす非対称な二元論に陥っている。
ハーマンの結論は明確である。真の二元論は、心と身体という二つの異なる実体の間にあるのではない。それは、あらゆるオブジェクト(心も身体も含む)が持つ、関係性に還元されない「ゼロ人称的」な実在と、他のオブジェクトに対して現れるその「情報的・関係的」な側面との間にある。
第3部:汎心論から内在心論へ
最後にハーマンは、自らの哲学と汎心論との関係を問い、それを「内在心論」として精緻化する。チャルマーズのモデルは、「結合問題」(無数の微小な心がどうやって一つのマクロな心を形成するのか)と「随伴現象説」(心は物理世界において因果的に無力ではないか)という難問に直面する。ハーマンは、自身のモデルがこれらの問題を解決できると主張する。
彼はブレンターノの「志向性」の概念を、ラディカルに再解釈して援用する。経験とは、オブジェクトのイメージ(志向的オブジェクト)が、別のオブジェクトの「内部」に存在することである。しかし、この経験が生じる「内部」は、経験する主体(私)の内部ではない。それは、主体と対象との「関係」そのものが形成する、新たな複合的オブジェクトの内部なのである。例えば、私が木を知覚するとき、その経験は「私」というオブジェクトの内部ではなく、「私-と-木の関係」という新たなオブジェクトの内部で生じている。
このモデルにおいて、意識はもはや因果的に無力な随伴現象ではない。むしろ、実在的なオブジェクト同士は退隠して直接接触できないため、このオブジェクトの「内部」こそが、因果性が起こりうる唯一の場所となる。因果性とは、オブジェクトの内部におけるイメージ(情報)を介した、代理的な接触なのである。
結合問題も同様に解消される。マクロなオブジェクト(例:「私-と-木の関係」)は、その構成要素(私、木、そしてその微粒子)の情報をすべて集約するわけではない。マクロなオブジェクトは、下位レベルの膨大な情報を抽象化し、遮断する。世界は階層的であり、各階層は独自の自律性を持つため、マクロな心は微小な心の単純な総和にはならない。
では、このモデルは汎心論なのだろうか? ハーマンは「ほとんど、しかし完全ではない」と答える。すべてのオブジェクトは、他者との関係に入れば、その関係が形成する新たなオブジェクトの内部に心的経験(プシュケー)を宿すことができる。この意味で、プシュケーは遍在する可能性を持つ。しかし、すべてのオブジェクトが常に関係に入るとは限らない。他の何ものとも関係せず、誰の経験にも関与しないまま存在するオブジェクトもありうる。
ここで決定的な区別が導入される。「存在すること」は、単に内在的な(ゼロ人称的な)実在として「内部を持つこと」を意味する。一方で、「経験すること(プシュケーを持つこと)」は、関係によって形成された、より大きなオブジェクトの「内部にいること」を意味する。すべてのオブジェクトは存在するが、すべてのオブジェクトが経験するわけではない。
したがって、ハーマンの立場は、すべてのものに心が宿るとする「汎(pan)」心論ではなく、オブジェクトの「内部(endo)」にプシュケーが生じるとする「内在心論(endopsychism)」と呼ぶのがより正確である。このモデルでは、宇宙は一般的に信じられているよりも指数関数的に多くの心で満ちているが、それでもなお、永遠の眠りについたままの実在的なオブジェクトが存在する余地が残されるのである。