2025-09-03

⚫︎昨日から続く。グレアム・ハーマン『The Graham Harman Reader』から「ZERO-PERSON AND THE PSYCHE(ゼロ人称と精神)」について。これは、いわゆる「心身問題」をハーマン独自の「身体-身体問題」として構築し直そうとする力作だが、ぼくには、その流れを構成するある一部が特に気に掛かった。それは、翻訳された『四方対象』を初めて読んだ時から気になっていたことだが(ただ、『四方対象』ではここについてあまり詳細には書かれていなかった)、この点について詳しく言及する人を見つけられないまま、今に至る。

それは、(昨日の日記で提示した)Geminiの「要約」で次のように語られる部分だ。

経験とは、オブジェクトのイメージ(志向的オブジェクト)が、別のオブジェクトの「内部」に存在することである。しかし、この経験が生じる「内部」は、経験する主体(私)の内部ではない。それは、主体と対象との「関係」そのものが形成する、新たな複合的オブジェクトの内部なのである。例えば、私が木を知覚するとき、その経験は「私」というオブジェクトの内部ではなく、「私-と-木の関係」という新たなオブジェクトの内部で生じている。

ぼくにとっては、ハーマンの理論で最も高いオリジナリティを感じるのがこの部分だ。ぼくは哲学や哲学史に詳しいわけではない、という限りでだが、他にこんなことを言っている人を見たことがない(強引に「近い感じ」を探すとすればライプニッツか)。ここでは何が言われているのかというと、「わたしの経験」は「わたしの心の中」にある(わたしの内部で起こる)のではなく、「わたし」がその構成要素の一つである、「わたし」よりも階層が一つ上位にある自律的オブジェクトの内部で起こっている(そこに経験が「実在」している)のだ、ということだ。たとえば「わたし」が、ある「木」と出会って、それに魅了されたとする。その時に起こる「木に魅了される(美しい木のイメージ)」という「わたし」の(美的な)経験は、「わたし」と「木」が出会ったことで新たに生まれた、「わたし」をその構成要素の一つとした、上位の「わたし+木」という複合的オブジェクトの内部で起こる(内部に実在する)出来事なのだ、ということだ。

これは、「わたし」が社会的・政治的・歴史的な諸関係性の効果としてあるという社会構築主義のようなものでもなく、また、「わたしの心」を「環境」の中に埋め込もうとするアフォーダンス理論のようなものでもない。これらはどちらも(ハーマンが批判する)「上方解体によるネットワーク主義だろう。そうではなく、実在的オブジェクトとしての「わたし」と、感覚的オブジェクトとしての「木」とが「出会う」という出来事が起こり、それによって「わたし+木」という上位オブジェクトが生成される。そしてその新たなオブジェクトの生成によって、(文脈や環境の効果によってではなく、特定のオブジェクトの内部において)初めて「わたし経験(わたしの心)の内容」が生まれるというのだ。「わたしの経験」は「わたし」のものではなく、「わたし」が上位のオブジェクトに、その一部分として組み込まれることによって生じる、上位オブジェクトのものである。だから、「わたしの経験」は存在するが、その「(わたし自身の)経験」を「わたし」は不十分な「翻訳」という形でしか知ることはできない(「わたしの経験」は「わたし」の所有物ではない)。

それは、「出会い=上位のオブジェクトの生成」が起こらなければ「心(の中身)」はないということだ。あらゆるオブジェクトは(「岩石」も「電子」も「屈斜路湖」も)「出会い」によって「心」を持つ可能性があるが、しかし、「出会い」は常に起こるとは限らないので、実際には、この宇宙のすべてのオブジェクトが(「心を持つ可能性」を持つとしても)「心」を持つわけではない、という理屈だろうか。

この点について、本文(Geminiによる翻訳)から特に重要だと思われる部分を引用する。

《(…)まず、私は、現象的な経験は根源的な事実であるという点で、消去主義に反対するチャルマーズに同意するだろう。それは今ここにある。私はこれらの言葉を書いている今、そのような経験をしている。しかし、内省はこの経験を全体として把握することは決してできない。内省は、物理学の関係的な記述と同様に、外部から見た情報を私たちに与える。それは、この情報が何についてのものであれ、多かれ少なかれノイズの多い翻訳である。意識が内在的であるのは、それが経験されるからではなく、それが存在するからであり、私自身の経験は、物理学と同様に、情報的な抽象化であるにすぎない。さらに、この意味で、身体(ここで「身体」とは「心身問題」の「身」であり、「物質/精神」の「物質」の側を指す・引用者)でさえも内在的である。電子の特性のいかなるリストも、その電子を置き換えることはできず、これは、電子もまた内在的で自律的なオブジェクトであることを意味する。

私たちは、精神現象を、それらがそれら自体の中に意図的にオブジェクトを含む現象であると言うことによって定義することができる。実際、そのような非存在は、私が保持したいブレンターノの教義の唯一の部分である。情報またはイメージ、それはフッサールのやり方で「志向的オブジェクト」と呼ぶこともできるだろうが、それは別のオブジェクトに含まれており、それらに内在的客観性の地位を与える。これは、実在的なオブジェクトの、決して内在的ではない、退隠した客観性と対照的である。志向的オブジェクトは自律的ではなく、実在的なものの内部にのみ存在する。

ブレンターノの理論の他の二つの側面は拒絶されなければならない。第一に、私たちは、物理的な領域には志向性がないという彼の含意を拒否すべきである。私たちはすでに、情報、翻訳、関係、またはイメージは、高度な意識的な存在という狭い意味での心に属するだけでなく、いかなる関係をも特徴づけると示唆した。電子は、人間と同様に、原子核の単なる情報的なイメージに遭遇し、私たちがそうであるように、これらの原子核と裸の現前において dealings するわけではない。これが、電子が、いかに原始的であっても、志向的な経験を持つという意味である。第二に、たとえ志向的オブジェクトが他の何らかのオブジェクトの核心に存在するとしても、この他のオブジェクトが私自身であると主張する理由はない。実際、私の木の知覚は、私の内側にあるのではなく、奇妙な新しいオブジェクト、つまり私と木との関係の内部にある。あまりにも頻繁に、「オブジェクト」という用語は耐久性のある物理的な固体に限定されており、このため、私と木との関係をオブジェクトとして記述することは奇妙に思えるかもしれない。しかし、もし私たちがオブジェクトを、誰かまたは何かがそれについて持つかもしれない情報とは別に内在的な実在性を持つものとして再定義するならば、問題は消える。そして、私と木との関係は、明らかにこの基準を満たしている。関係は明らかに起こる、さもなければ知覚はないだろう。しかし、この関係は、私がそれについての私の意識によって汲み尽くされることもない。なぜなら、私は私の知覚を記述する際に間違いを犯すことができ、たとえ部分的な成功を収めるためにも、骨の折れる現象学的な作業が必要だからだ。同様に、外部の観察者が、おそらく実験心理学の機能的な用語でそれを記述することによって、私と木との関係を汲み尽くすこともできない。したがって、私と木との関係は、オブジェクトの基準を満たす。そして、私の木の知覚を含むのは、私ではなく、このオブジェクトの内部である。》

《ここで、奇妙な非対称性があることに注意すべきである。木のイメージまたは木の情報が、知覚において非存在的に現れるものであるのに対し、私自身は、単に志向的なものではなく、実在的なオブジェクトとして現前している。なぜなら、私は本当にそのイメージを経験しているからだ。したがって、オブジェクトの内部は、実在的なオブジェクトと志向的なオブジェクトの近接性を含む。これは、もし木が私とも関係を結ぶことができるならば、これは、実在的な木が私の現象的なバージョンと触れ合う、相互的だが非同一的なオブジェクトを生成することを意味する。しかし、これは別の機会のテーマである。

⚫︎追記。この日の日記の記述で、「わたし」の経験が起こっている「わたし+木」という複合的オブジェクトのことを「わたし」に対して「階層上位のオブジェクト」だと書いているのは不適切だったかもしれない。ここで「上位」というのは、たんに「わたし」と「木」とが、オブジェクト「わたし+木」の一部であり、その構成要素となっている(オブジェクト「わたし+木」に包摂されている)というだけの意味であって、オブジェクト「わたし」とオブジェクト「わたし+木」とが、ツリー的な階層構造を構成しているということではない。ハーマン的なオブジェクトは、互いに互いの構成要素として入れ子になりながらも、あらゆるオブジェクトは、あくまでフラットで並立的な存在である。オブジェクト「電子」も、オブジェクト「屈斜路湖」も、オブジェクト「中国」も、すべてフラットに存在する、同等の「オブジェクト」である。