2025-09-01

⚫︎グレアム・ハーマンの『The Graham Harman Reader』から、とりあえず短めのテキスト「THE WELL-WROUGHT BROKEN HAMMER: OBJECT-ORIENTED LITERARY CRITICISM(巧みに作られた壊れたハンマーオブジェクト指向文学批評」を読んでみた。二十世紀の批評理論について書かれたもの。ぼくにはここでハーマンが提唱する「批評」のあり方がとても面白く、興味深く、納得できるものだった。まず、Gemini 2.5 proによる「要約」。

『巧みに作られた壊れたハンマー』要約

本稿で哲学者のグレアム・ハーマンは、自身の提唱する「オブジェクト指向哲学(Object-Oriented Philosophy, OOP)」の観点から、20世紀の主要な文学批評理論を再検討し、新たな批評の可能性を提示する。

まずハーマンは、OOPの背景にある「思弁的実在論」を解説する。これは、カント以降の大陸哲学が囚われてきた「相関主義」(世界は人間との相関においてのみ認識可能であり、独立した世界そのものを語ることはできないという思想)を批判し、人間から独立した実在を思考しようとする運動である。その中でハーマンのOOPは、独自の位置を占める。彼は、カント的な「有限性」(物自体は知り得ない)を肯定しつつも、それを人間と世界の間に限定せず、衝突するビリヤードの球や雨粒と屋根瓦の関係など、宇宙に存在するあらゆるオブジェクト間の関係にまで拡張する。

OOPの核心は、オブジェクトがその関係性や性質よりも深い、アクセス不可能な実在を持つという「退隠(withdrawal)」の概念にある。ハーマンはハイデガーの「道具分析」を援用する。ハンマーは普段、道具として使われている間は意識されず、その存在は背景に退いている。しかし、それが壊れたとき、私たちは初めてハンマーそのものの、道具としての機能や我々の認識を超えた実在に気づかされる。この「壊れたハンマー」が暗示する、アクセス可能な性質の奥に潜む実在的な核との関係を、ハーマンは「魅惑(allure)」と名付け、これこそが芸術の主要なテーマだと主張する。この思想は、すべてを関係性・ネットワーク・文脈の中で捉えようとする近年の人文科学の潮流とは一線を画すものである。

この視点から、ハーマンは三つの主要な文学理論を批判的に検討する。

第一に「ニュー・クリティシズム」。ブルックスの「詩はパラフレーズできない」という主張は、詩というオブジェクトがその言語的表現や解釈を超えた実在を持つという点でOOPと響き合う。しかしハーマンは二つの問題点を指摘する。一つは、この「パラフレーズ不可能性」を詩に限定し、科学や哲学は対象に直接アクセスできるかのように見なした「分類学的誤謬」。OOPによれば、あらゆる対象は退隠しており、パラフレーズの不可能性は普遍的である。もう一つは、詩の内部を、全要素が相互に依存し合う閉じた「全体論的」なシステムと見なした点である。

第二に「ニュー・ヒストリシズム」。この理論は、文学作品を自律的なオブジェクトと見なさず、社会的・歴史的文脈における権力関係や言説の「循環」や「交渉」の産物として、その文脈の中に溶解させてしまう。ハーマンによれば、これはオブジェクトをその外部要因に還元する「上方還元(overmining)」であり、作品の自律性や、なぜ特定の文脈に抵抗し、時代を超えて存続するのかを説明できない。また、すべてが関係性で決まるなら、抑圧からの抵抗も理論的に困難になるという政治的な問題もはらむ。

第三に「脱構築」。デリダは、自己同一的なオブジェクトという概念自体を「現前の形而上学」として退け、世界をシニフィアン(記号表現)の無限の戯れや差異の連鎖として捉える。しかしハーマンは、デリダは「実在論(物は独立して存在する)」と「素朴な現前主義(物は直接アクセス可能である)」を混同していると批判する。OOPが主張するのは、オブジェクトが自己同一的な実在として退隠しているからこそ、いかなる記号や関係もそれを汲み尽くすことができない、ということである。デリダの思想は、すべてが他のすべてになる全体論に陥り、オブジェクトの個別性を失わせる。

結論としてハーマンは、文学作品を文化的文脈に溶解させる「上方還元」や、その構成要素に分解する「下方還元(undermining)」を退け、作品を自律的なオブジェクトとして捉える新たな批評を提案する。その具体的な方法とは、従来の「文脈化」とは真逆の「脱文脈化」である。例えば『白鯨』を短縮したり、語り手を変えたり、『高慢と偏見』の舞台を現代パリに移すなど、作品に意図的な改変を加えてみる。そうした実験を通じて、テクストがどのような変更に耐え、どこからその本質を失うのかを探ることで、その作品の自律的な核、すなわち周囲の環境や自らの性質からも完全には規定されない「巧みに作られた壊れたハンマー」としての実在が明らかになる、とハーマンは結論づける。

⚫︎ここではハーマンの芸術に関する考え方の基本が述べられている。それは、作品をその細部のあり様やその構成・構築のメカニズムに、つまり作品の内的ネットワークに還元すること(下方解体・ここではニュークリティシズムに対応する)にも、そうではなくて、作品を、歴史的、社会的、政治的なネットワークや配置、権力関係に、つまり外的なネットワークに還元すること(上方解体・ここではニュー・ヒストリシズムに対応する)にも抵抗し、さらに、作品を「一つのもの」たらしめる「統合性」を疑って、複数の、あるいは無数の運動性(力の作用)へと解体すること(脱構築)にも抵抗して、しかし同時に、それらを簡単に無視できるかのように振る舞う従来の(カント的な)「形式主義」も批判した上で、なんとかして作品の(つまりは「オブジェクト」の)「自律性」を確保しようする、というようなものだ。そのような試みが(カントを批判しながらもカントに依っている)ハーマン的な「形式主義」としてのオブジェクト指向だということになる。

そこまではわかりやすいとして、では、オブジェクト指向的な「批評」はどのようにあるべきか。それについてハーマンが推奨するあり方が、《作品に意図的な改変を加えてみる》ことで、《テクストがどのような変更に耐え、どこからその本質を失うのかを探》り、それによって《その作品の自律的な核》を明らかにすることだ、と言っている。これは本当にそうだな、と、(感覚的・実感的に)納得する。

実際、このような「批評的作品」は多く作られており、しかしそれは通常、古典を(「現代」へと開いて)アクチュアル化する試みであるかのように捉えられている。しかしそうではなく、むしろ逆向きの行為で、その古典を古典たらしめている固有性、自律性を改めて探り出し、検討し、味わう、というそのために行われていることになるはずだ、とされる。

(ここで注意すべきなのは、ハーマンは、下方解体や上方解体そのものを否定しているのではないということだ。けっきょく、人による知的な探究は下方解体か上方解体の形を取るしかなく、それを否定するならただ世界の神秘の前にひれ伏すしかなくなる。そうではなく、オブジェクトには、下方解体によっても上方解体によっても汲み尽くされる」ことのないそれ自身としての「自律性」があるという、その一点を、存在論として確保することが重要なのだと思う。)

(追記。このような、脱文脈化されたものの「自律性」が確保できないのなら、たとえば「政治的な抵抗」を可能にする理論的根拠も失われてしまうだろう。)

⚫︎以下、ハーマンが推奨するあるべき「批評」のあり方について書いているところを、要約ではなく、本文(の翻訳)を直接引用する。

《作品をその文脈に埋め込もうとするすべての努力は、いくつかのかなり明白な理由で失敗する運命にあります。(…)それらの明白な理由の一つは、ある著者たちが『ギルガメシュ叙事詩』や『アンティゴネー』を制作した社会的条件は、これらの作品そのものとは完全には関係がないということです。一つには、これらの作品は時空を超えてよく伝わり、一般的に、作品が優れているほど、よりよく伝わります。》

《同じ社会時代が、ジャクソン・ポロックパトリシア・ハイスミスフランク・シナトラ、そしてハリー・トルーマンを生み出しましたが、彼らすべてをこの時代に帰することは、このリストにある広く異なる気質と才能を著しく過小評価することになります。「著者の死」の呼びかけは、「文化の死」という新しい呼びかけによって補完される必要があります。与えられた作品を生み出した社会的条件を強調するのではなく、私たちはその逆を行い、作品がその時代や場所で期待されたかもしれないものをどのように覆したり、形作ったりするか、あるいは、ある作品が世紀の地震に他の作品よりもはるかにうまく耐えるかを見るべきです。誰かのことを「その時代と場所の産物」と呼ぶことは決して褒め言葉ではありませんし、文学作品に向けられた場合も褒め言葉であるべきではありません。》

《(…)ここでは、私が推奨するような広範な規模ではおそらく試みられたことのない方法を提案したいと思います。すなわち、批評家は、それぞれのテクストが、それらのテクストの様々な修正を試み、何が起こるかを見ることで、内部の全体論にどのように抵抗するかを示すことを試みるかもしれません。『白鯨』について書くだけでなく、それが『白鯨』のように聞こえなくなる点を発見するために、様々な程度に短縮してみるのはどうでしょうか? それがさらに長くされ、イシュマエルではなく三人称の語り手によって語られたり、地球の反対方向への航海を含んだりすることを想像してみるのはどうでしょうか? 》

《最近の「文脈化せよ、文脈化せよ、文脈化せよ」という際限のない勧告とは対照的に、これまでの提案はすべて、作品を脱文脈化する方法に関わっています。それらが生産の条件をどのように吸収し、抵抗するかを検証することによって、あるいは、それらがそれら自身の特性からさえもある程度自律的であることを示すことによって。モービー・ディックは、その正確な長さや変更可能なプロットとは異なります。それは独立した実体であり、ある種の修正には耐えられますが、他のものには耐えられません。文学的オブジェクトがその周囲や、さらにはその明白な特性と完全に同一視できないことを示すことによって、批評は、ハイデガーの道具分析で示されたオブジェクトとその偶性的な特徴との間の同じ緊張を私たちに示してくれるでしょう。それは、巧みに作られた壊れたハンマーの性質を明らかにし、さらに、すべての壊れたハンマーが等しく巧みに作られているわけではないことを明らかにするでしょう。》

⚫︎追記。ハーマンがニュークリティシズムへの批判点として《詩の内部を、全要素が相互に依存し合う閉じた「全体論的」なシステムと見なした点》を挙げているのは重要。OOOでは、オブジェクト(あるいは「作品」)内部の内的関係(内的構築)はそれほど厳密でなくてもよく、けっこうルーズである。たとえば、「わたし」にとってかけがえのない、大切な人の遺品である思い出の「このフォーク」の「歯」が、一本や二本欠けたとしても、柄の一部が破損したとしても、このフォークが「このフォーク」であることの固有性は維持され、揺らがない。中身や内的関係が多少変わっても、「ガワ(形式)」としてのオブジェクトの同一性(深淵性)は維持される。では、どの程度まで中身が入れ替わり、あるいは破壊されると、オブジェクトの自律性、固有性が壊れてしまうのかという「テセウスの船」的問題が出てくるが、それは、各々、個別のオブジェクト、個別の事例によってそれぞれ異なる、ということになるだろう。