⚫︎『谷岡ヤスジのメッタメタガキ道講座』(江崎実生)。たまたま、この映画のオープニング部分の映像をYouTubeで目にしてずっと気になっていたのが、ツタヤディスカスで借りられると知って、借りて観た。まさかDVDが出ているとは思わなかったが、ゼロ年代にアップリンクから出ているから、谷岡ヤスジ再評価みたいな流れが当時あったのだろうか。
・「ヤスジのメッタメタガキ道講座」 OP 谷岡ヤスジ
https://www.youtube.com/watch?v=zFID0BjoG8g
観ながら何度、「これは酷い」「なんて乱暴な…」と思ったものか。
1971年の日活・ダイニチ映画となっているが、日活は1971年の終わりに一般映画の製作を完全にやめてロマンポルノ路線に移ったのだから、これは本当に日活の最末期の映画なのか。内容は「酷い」が、ある意味で普通のプログラムピクチャーであり(ヒットしたマンガが原作の映画だ)、しかしそれでも、どこか底が抜けてしまっている感もあるのは、一時代が終わるという荒れた空気の中で作られたということもあるのかも。
映画としては、1970年にヒットした『ハレンチ学園』シリーズの類似企画なのだろう(『ハレンチ学園』も日活・ダイニチ製作だ)。だが、こちらの方が、エロ・ナンセンス・暴力の度合いが強まり、より徹底している。
今では、(強く)「子供」は保護されるべきものとされているが、70年代初頭の「ある政治的な雰囲気」の中では、「子供の表象」は旧態依然とした体制に対する(権力を「転倒」させる)「秩序の錯乱者」という位置付けを持っていた。『ハレンチ学園』がまさにそうだし、寺山修司の『トマトケチャップ皇帝』(1971年)とかもそうだ。子供は、欲望のアナーキーな発露を体現する存在としてフィクションの中で機能した。今から見れば、それは子供そのものの表現というより、大人の(大人の男性の)欲望・思想が投影されたものに過ぎなかったとしか思えないが。
(子供の多形倒錯的でアナーキーな欲望のあり方は、ファルス的機能からすると能動性のなさ・不能と引き換えであり、主人公の少年=小学生は、同級生の女の子たちから男性器が小さく幼いことを馬鹿にされて自死を試みたり、同級生男子たちが皆ちゃっかりと「大人の女」を「ゲット」しているのを尻目に、主人公だけが「大人の女」を「得る」ことに失敗し続ける、など、あからさまに精神分析的なところもある。でも、それがラストに「お母ちゃんのおっぱい」に回帰するというのは、「え ! そこなの !!」と…、と思った。)
(上記のように、この時代の「子供=アナーキーな秩序の撹乱者」というイメージは、あまりに男性中心主義的すぎたのだと思う。)
子供が(これは「男の子」なのだが)大人に対して暴力的行為を行い、それに対し大人もまた子供に、容赦無く暴力を返す(なんなら、何割か増して、過剰に返す)。そして、子供同士の間でも暴力の応酬がある。このような展開を、意味づけや感情を重く付加することなく、ナンセンスな闘争の連鎖として描き出す。子供は男の子であり、暴力はしばしば性的なもので(しかし、前述したが、ラストで「母親のおっぱい」に収束するのは、時代の限界があるとしても、今まであれだけ好き勝手にやってきてそこ ? 、いやそれはちょっとキツいっす、と思った)、「他者の存在」を一切考慮に入れず、徹底して自己中心的に考えれば、これは確かに欲望のアナーキーな発露の表現であり、ナンセンスの享楽や秩序破壊的な解放感もあるが、しかし、「他者が存在する」ということが少しでも頭をよぎると、一気にシューっとなって引いてしまう、という感じもある。
(ただし、『ハレンチ学園』や『トマトケチャップ皇帝』よりも複雑で、たんに「価値の転倒(権威対反権威)」に収まらないのは、ここでは、子供は子供の立場、大人は大人の立場と、立場は違っても、互いに対等に「暴力の応酬(闘争)」が行われるところだろう。大人の側が権威・権力として描かれていない。子供も大人も、どちらも徹底して自己中で「酷い」のだけど。)
「なんて乱暴な…」という感想は、ただ内容的なことだけでなく、映画としての作りからも感じられる。ある意味では、ちゃんとした撮影所の映画で、プログラムピクチャーの「作り」なのだが(主人公の一家が住んでいる家のセットの空間など、とてもよくできていると思う)、でも一方で、展開の仕方とか撮り方とかから、端々ですごい「投げやり」な感じを感じもする。ちゃんとしているところと粗雑なところとが入り混じっている。
また、「なんて乱暴な…」という感触は、ただ否定的なものではなく、どこかでそれに惹かれてしまっている感じもある。この乱暴さと響くところが自分の中にも否定しがたくあると感じられる。
(なんというのか、「優しさ」というものを徹底して排除した、自己中心的な欲望の闘争状態が出現しているが、ただしそこには「策略」や「陥れ」のようなものは極めて希薄で、つまり「政治」が希薄で、人々はただ目先の欲望に引っ張られて、行き当たりばったりの闘争と離合集散を繰り返している、という感じか。敵 / 味方も頻繁に、いい加減に入れ替わり、闘争状態にあった相手となんのわだかまりもなく共闘し、そうかと思うとすぐにまた敵対する。「欲望」だけがあって「心理」がない ? だから暴力がトラウマと結びつかないのか ? 登場人物たちは身体的にも心理的にも不死身であり、だから、こんな酷い暴力が連鎖する展開を見続けていられるのか。)
普通に酷い映画だし、こういうものをサブカル的に(「ドイヒー(死語)」とか言って)簡単に面白がってはいけないと思うが、ただ倫理的に否定して済ませられないものがあるように思う。
(谷岡ヤスジはほとんど読んだことがない。)