⚫︎ふと、「生活」という語はなんか不自然だな、と思った。なんというのか、漢字の意味と単語としての概念がうまく噛み合っていない感じがある。あまりにも当然のように普段から使い倒している語なので今までこの不自然さに気が付かなかったが、気づいてみると変だ。
で、思ったのは、おそらく「生活」という語は、明治時代に西欧由来である「life」という概念を輸入する際に翻訳語として無理やりに作られたのではないかということだった。こういうことは、疑問に思ったらAIに聞いてみるのがいい。チャッピーに聞いた。
質問。《「生活」はlifeの翻訳語 ? 》
はい。ただし、少し正確に言うと、「生活」は life の翻訳語の一つとして近代以降に重要な意味を担うようになった言葉 です。
英語の life は非常に意味の幅が広く、日本語では文脈によってさまざまに訳されます。
- life = 生命(生物学的な生命)
- life = 命(個人の命)
- life = 人生(一生)
- life = 生活(日々の暮らし)
- life = 生き方、ライフスタイル
たとえば、
- "the origin of life" → 「生命の起源」
- "his life story" → 「彼の人生」
- "daily life" → 「日常生活」
となります。
「生活」はもともと日本語にあったのか
「生活」という熟語自体は明治以前の漢文や中国古典にも見られ、日本で新しく作られた語ではありません。しかし近代になって西洋思想や社会科学を翻訳する際に、life や living を訳す語として頻繁に使われるようになりました。
その結果、「生活」という言葉は単なる「生きて活動すること」ではなく、
- 生活様式
- 生活世界
- 生活水準
- 生活環境
といった近代的な意味領域を担うようになります。
面白い点
実は逆向きに見ると、日本語の「生活」にぴったり一致する英語はありません。
日本語の「生活」は、
- life
- living
- livelihood
- everyday life
- way of life
などに訳し分けられます。
そのため、
「生活」は life の翻訳語か?
という問いには、
「完全にそう」とは言えないが、近代日本では『生活』が life の主要な翻訳語の一つとして再編成され、その意味が大きく拡張された、
と答えるのが歴史的にはいちばん正確だと思います。
なお、この問題は哲学史ではとても重要で、特にドイツ語 Leben(生/生命/生活)を日本語でどう訳したかという問題につながります。たとえば現象学の「生活世界(Lebenswelt)」や、ディルタイ・ベルクソン・ハイデガーなどの「生の哲学」を考えるときにしばしば論じられます。
質問。《元々使われていた「生活」という語が、「life」という語が持つ意味の一部を翻訳するものとして、明治時代に再定義された、という理解で大丈夫 ? 》
はい、その理解でおおむね正しいと思います。
ただし「再定義」というよりは、「意味領域が拡張され、再編成された」と言った方が歴史的な実態に近いでしょう。
もともと漢語の「生活(せいかつ)」は、中国古典では「生きて活動すること」「生を営むこと」といった意味で使われていました。しかし、それは今日私たちが使う「生活」のような、社会学的・文化的・経済的な意味を広く含む概念ではありませんでした。
明治期になると、西洋語の翻訳の必要から、
- life
- living
- livelihood
- mode of life
- way of life
などの概念を表現するために、「生活」が頻繁に用いられるようになります。
その結果、「生活」は単に「生きること」ではなく、
- 衣食住を営むこと
- 家計や生計
- 日常的な実践
- 社会的・文化的な暮らし方
を含む概念へと広がっていきました。
たとえば、「生活問題」「生活状態」「生活様式」「生活程度」といった表現は、近代社会科学の発展とともに定着したものです。
この現象は、「哲学」「科学」「社会」「経済」のような典型的な翻訳語の場合とは少し異なります。
- 「哲学」は philosophy のために新しい意味が与えられた語
- 「社会」は society の翻訳語として再編成された語
- 「生活」は既存の漢語だったが、life や living の翻訳を通じて意味が大きく拡張された語
という違いがあります。
さらに興味深いのは、「life」という西洋語自体も近代になって意味が変化していることです。19世紀には、
- 生物学的生命
- 個人の人生
- 日常生活
- 社会的生
が「life」という一語のもとで結びつけられるようになります。
日本語の「生活」も、その近代的な「life」の概念構造を受け入れることで、従来よりもはるかに大きな意味空間を獲得した、と考えられます。
この点を研究した思想史家の仕事では、たとえば 丸山眞男 や 加藤周一、近年では 苅部直 らが論じている「翻訳語の形成」の問題とも重なります。
したがって、
「生活」という既存の漢語があり、それが明治期に life の翻訳語として採用され、その過程で意味が再編成された
という理解はかなり適切です。
さらに厳密に言うなら、
「生活」は life の翻訳語になったのではなく、life を翻訳する過程で近代的概念として作り変えられた
という表現が近いかもしれません。これは「社会」「個人」「文化」など多くの近代日本語に共通する現象です。
⚫︎これとは直接関係のない話だが、いつも思うのは、「語」の定義をしないままの不毛な議論というのがあるよなあ、ということだ。たとえば「意識は幻想に過ぎない」「意識は実在しない」とかいうフレーズがあるけど、その場合まず「意識」「幻想」「実在」という語が何を意味しているのか決めないと、何をいっているのかわからなくなる。この三つの語は特に、意味がふわっとして多義的な語なので、まずその語の意味を、どういう範囲で使っているのかを決めないと、ただただ頭を混乱させるための議論にしかならない。そもそも「意識」という、さまざまな議論があって解決もついていない、簡単には意味を特定できない語と、それよりさらに(科学的にも哲学的にも)定義がむずかしい「実在」という語を、ただ乱暴に並置しただけの「意識は実在しない」という文などは、ほぼ何も意味していないに等しいと思う。
⚫︎そして、政治的な議論になると、これよりもさらに一層、定義のよくわからないままの曖昧な語が散乱して、その議論には、お互いに「俺様のいうことをきけ」と言い合っているという以上の意味なんてないよね、というものばかりで、ただただうんざりさせられる。しかし、政治的な議論においては実はこのことに大きな意味があって、はじめから「人をうんざりさせる」ことこそが目的で、議論をきく聴衆は、うんざりするというか、内容がよくわからないまま(わからないからこそ)、吟味と判断を放棄して、「決まり文句」を通じて、熱と依存の感情と敵への悪意だけを昂じさせてしまう。あるいは、そうでない冷静で理知的な人は嫌気がさして無関心になる。どちらにしても、悪い意味で「重要な効果(意味)」がある。
(相手の言うことを聞かず、自分を変化させることなく、自分の意見を曲げないままで自説を主張しているだけの言い合いは議論とは言わず、それはただ「自分の支持者」に向けた「俺は(身内で褒め合うだけでなく)敵陣に乗り込んで戦ってるんだぜ」とアピールするためのパフォーマンスでしかない。)