2025-08-27

⚫︎また、グレアム・ハーマンの本(電子書籍)を買ってしまった。『The Graham Harman Reader』と『The Prince and the Wolf』。前者は、単行本未収録の短編集のようなものだが(追記、必ずしも単行本未収録に限らないようだ)、全部で883ページもある。後者は、ブルーノ・ラトゥールとの対話。これがきっかけで、ハーマンのラトゥール論『Prince of Networks』が書かれたということのようだ(『Prince of Networks』はぜひ読みたいのだが電子書籍がなぜかない。ペーパーバックで買うと、まず本が届くまで半月以上かかるし、AIに翻訳してもらうためにテキストファイル化するのに手間がかかる)。改めて数えてみて驚いたが、この二冊で七冊目で(全部読んだわけではないが)、翻訳されて日本の出版社から出ている紙の本三冊と合わせると10冊だ。さらに、PDF形式で、ネットで完全に無料公開されている(様々な人によるOOOへの批判に対する「反論」によって構成された本)『SKIRMISHES』も合わせれば、電子世界も含めてぼくの本棚にあるハーマン本は11冊にもなる。

なぜか日本ではハーマンに言及する人がほぼいなくなってしまったが、本人は無茶苦茶旺盛に活動していて、本を書きまくっているし、検索すれば動画もたくさん出てくる(つまり、色々な場所で喋りまくってもいる)。アメリカでは「21世紀で最も影響力の大きい哲学者の一人」と紹介されることが多いようなのでプレゼンスもあるはずだし、『The Graham Harman Reader』の推薦文をSF作家のブルース・スターリングサイバーパンクの代表作である『スキズマトリックス』を書いた人)が書いていることからも、一定以上のポピュラリティもあるのではないか。日本ではなんでみんなハーマンを読まなくなってしまったのが。普通に面白いと思うのだけど。

以下は、あくまで素人としての感想でしかないものだが、哲学的には主にハイデガーフッサールに準拠し、美学的な著作ではそこにカントが加わるという感じ。ポストモダンの思想家(そしてポストモダンの思想家に高く評価されている思想家)に対しておおむね批判的であり、特にドゥルーズデリダが強めに批判されることが多い。そして、なぜかニーチェに対する言及がほとんど見られないという印象がある(ポストモダン=弱毒化されたニーチェ主義みたいなところがあると思うので、その意味でもポストモダン的ではない)。

基本としてハイデガーフッサールに準拠しながら、それらを大胆に読み替えた「オブジェクト指向存在論OOO)」という独自の立場を標榜し、哲学者に限らず、かなり多様なたくさんの著述家が取り上げられ、その論説が要約して示され、分析され、文脈化されつつ、独自の「OOO基準」に照らし合わせて、それらを「良いところ」と「悪いところ」とにバサバサッと切り分けていくというストロングスタイルの記述で(日本では一般的に思える、特定の「大哲学者」に仮託して裏声で「自説を語る」みたいなスタイルではない)、ところどころでどうしても粗雑な感じはある(軽薄な「アイデアマン」的な感じは確かにある)。だからそこで「怒ってしまう」人もいるのかもしれない。

しかし、その旺盛な仕事量をつうじて、ある意味で粗雑にも思われる「オブジェクト指向存在論OOO)」が、徐々に、まさに今、練り上げられていく様をリアルタイムで見ているような臨場感とドキドキ感がある。今、思索を練り上げつつある、同時代の哲学者という感じがある。年齢が一つ違いであるという「同世代」的な肩入れもあるのかもしれない。

⚫︎追記。以下は『The Prince and the Wolf』の序文をGemini 2.5 proに要約してもらったもの。これを読むと、ハーマン、めちゃくちゃいい人じゃん、と思う。

序文の要約

本書は、2008年2月5日にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスLSE)で開催された、フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールと、アメリカの哲学者グレアム・ハーマンによる形而上学に関する討論会の記録である。これは、主人公たちが物理的な暴力ではなく、形而上学の討論で決着をつける「現代のおとぎ話」として描かれている。議論の中心となったのは、ハーマンが当時執筆中だったラトゥールの哲学に関する原稿(後の『Prince of Networks』)であった。

このシンポジウムは、いくつかの点で異例であった。第一に、進行中の原稿を著者自身と、その原稿が論じる対象であるラトゥール本人も交えて議論するという、極めて稀有な機会だったこと。第二に、社会学者・人類学者であるラトゥールの業績を、哲学の根源的な領域である「第一哲学」の観点から本格的に論じたこと。そして第三に、この哲学的な討論会を主催したのが、LSE経営学部情報システム・イノベーショングループ(ISIG)に所属する博士課程の学生たちだったことである。

この一見奇妙な組み合わせの背景には、主催者である学生たちの切実な問題意識があった。情報システム(IS)を学ぶ彼らは、社会現象だけでなく、情報通信技術(ICT)のような技術的アーティファクトの存在をどう捉えるべきか、という哲学的な課題に直面していた。この問いを探求するため、彼らはラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)と、技術論で知られるマルティン・ハイデガーの哲学を並行して学ぶ読書会「ANTHEM」を結成した。この活動を通じて、彼らはラトゥールの著作の中に頻繁に言及されるグレアム・ハーマンの存在に注目する。ハーマンは、ハイデガー研究者でありながら、社会科学者であるラトゥールの仕事に哲学的な革新性を見出し、両者の思想を接続しようと試みていたからだ。

シンポジウム開催に至る経緯は、偶然と幸運が重なった奇跡的なものだった。学生たちがハーマンに接触したところ、彼はラトゥールに関する未発表原稿を快く提供してくれた。これを機に、学生たちはハーマンをLSEに招き、原稿をめぐるワークショップを開催することを計画する。すると驚くべきことに、ラトゥール本人もほぼ同時期にLSEで講演する予定であることが判明したのだ。この千載一遇の好機を捉え、学生たちは両者を一堂に会させるという壮大な計画を実現へと動かした。このプロセスにおいて、SNSや電子メール、携帯端末といったデジタル技術が重要な役割を果たしたことは、技術的アーティファクトの働きを重視するラトゥールの思想を体現するかのようであった。

主催者たちは、このシンポジウムを単なる発表会ではなく、二つの知性を衝突させ、その相互作用から新たな知見を生み出すための「実験室」として設計した。ハイデガーの「集まるもの(thing)」という概念を援用し、シンポジウム自体を、講演者、パネリスト、聴衆、原稿、会場といった多様な要素が結びついて構築された一つの「もの」として捉えたのである。パネリストには、両者の思想とLSEにゆかりの深い専門家を招聘。聴衆は招待制とし、多様な専門分野の研究者を集め、事前にハーマンの原稿を熟読することを参加の条件とした。これにより、密度の濃い議論のための土壌が整えられた。

当日の討論は、知的刺激とユーモアに満ちた、大成功を収めるものとなった。「客体の本質とは何か」「形而上学の目的とは何か」といった根源的な問いをめぐり、白熱した議論が交わされた。この「実験」を通じて、ラトゥール、ハーマン、そして聴衆は、それぞれに新たな発見と学びを得た。

このシンポジウムの影響は、一日のイベントに留まらなかった。それは多くの成果物を生み出す「もの」として機能し続けたのである。第一に、ハーマンの原稿は、この日の議論を踏まえて大幅に加筆・修正され、彼の主著『Prince of Networks』として完成した。第二に、イベントの音声記録がオンラインで公開されて広く聴取され、その記録を文字に起こし、編集したものが本書となった。そして、この経験はハーマンとラトゥールがオープンアクセス出版に積極的に関わるきっかけともなった。

この序文の筆者(主催者の一人)は、自らを実験の当事者として深く関与しているため、客観的な評価はできないと断っている。その上で、本書を、この知的実験から生まれた一つの成果物として提示し、この「おとぎ話」がどのような結末を迎えたのか、その評価を読者一人ひとりに委ねて締めくくっている。