⚫︎U-NEXTで『ひまわり』(行定勲)。2000年公開の映画で、ぼくはこれを2001年の5月にレンタルしてきたVHSで、ブラウン管テレビで観た。24年前に、一度だけ観た映画で、それも、すごく素晴らしいと思ったわけではない。でも、強く印象に残り、この映画のことはずっと気に掛かっていたというか、どこかに引っかかっていた。
以下は24年前の日記だが、あまりに偉そうな口ぶりなので、過去の自分に、なんだこいつ、と、ムッとする。
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なんとなく、ずっと気に掛かっていた映画がU-NEXTにあったので観てみた。確かに25年前の映画で、人はところ構わずスパスパとタバコを吸っているし、出ている俳優たちがみんな若い。若い頃の北村一輝は素晴らしいな、とか、田中哲司わっけー、とか、メイク男が堺雅人だと、エンドクレジットの字幕を視るまで気づかなかった、とか。今では特になんということもないが、24年前の自分はこの映画のような、岩井俊二的なモンタージュというか演出をかなり嫌いだったはずで、なので、日記はああいう書き方になるのだな、とか。
この映画といえば麻生久美子で、この映画を観てからしばらくの間、麻生久美子といえばこの映画のイメージだった。しかし、改めて映画を観直した後で大きな記憶違いがあるのに気づいた。ぼくの記憶では、この映画で初めて麻生久美子を観て、麻生久美子という俳優の存在を認識したと思っていた。麻生久美子のファーストインプレッションがこの映画だった、と。しかし、黒沢清の『ニンゲン合格』が99年に公開されていて、公開時に映画館で観ているので(どこだか忘れたがかなり大きな映画館で観客が三人くらいしかいなかった)、つまり2001年にはもう麻生久美子を知っていたはずだ。
ぼくの記憶では、『ニンゲン合格』を観た時にはすでに何本かの映画で麻生久美子を知っていて、強い印象と共に麻生久美子を初めて知ったのが『ひまわり』だった、ということになっているが、時系列的にこれはありえないようだ。おそらく、このような記憶違いを起こしてしまうくらいに、この映画の麻生久美子は強烈な印象だった。
⚫︎恋人と別れるか、別れないかという瀬戸際にある主人公の男が、恋人と喧嘩中に、テレビのニュースで小学校時代の同級生(女)が海で事故死したことを知る。といっても、男はニュースで流れてきた「名前」に気づかず、恋人の女の方が、前日に「同じ名前」が留守番電話のメッセージに録音されていたことに気づくのだった。男は名前を聞いてもどんな人物だったかよく覚えていなくて、とりあえず、東京にいる同級生たちに声をかけて、葬式のために久々に故郷の小さな港町に帰る。映画はそのように始まる。故郷の風景や地元の同級生たち、葬式に集まる人たちの話などを通じて、男は、亡くなった女が自分にとってとても重要な(トラウマ的な)かかわりがあった人物だったことを思い出す。このように書いてしまうと、極めてありふれた話なのだが。
女の死が、男の中で埋もれてしまっていた記憶(出来事)を、再度現前させる。そのような意味で、これは(自分を忘れるなと主張する)幽霊と呪いの話でもあり、実際、麻生久美子はすべてではないがほとんどの場面で真っ赤なノースリーブのワンピースを着ていて、これは90年代Jホラーの幽霊の定番衣装だ。男にとってこの記憶は、罪悪感と甘い感傷が入り混じったような、まさに胸がぎゅっと締め付けられるような感情と結びついている。そのような意味では、「過去」をノスタルジーと甘い感傷のオブラートに包んで提示するような傾向があり、過去のぼくがわりと強めに否定的だったのもわからなくはない。だけど、明らかにそのような傾向を含みつつも、この映画はそれだけではない。
(ある意味で、岩井俊二の『打ち上げ花火…』に近いところがあるが、『打ち上げ花火…』に対して、『打ち上げ花火…』では「ある」のに隠されていた「大人になってからの視点」を入れることで、強めの批判を含んだ、批評的検討がなされているような映画でもある。『打ち上げ花火…』の奥菜恵よりも、この映画の麻生久美子の方が強い印象を残すとしたら、それはこの映画の「批評性」によるものと思われる。)
亡くなった女と、男の間にあるのは「秘められた関係(感情)」とでもいうべきもので、それがこの映画の「大切な部分」を形作っている。しかし、そうである限り、その出来事は男の記憶と感傷とに還元されてしまいがちだ(感傷的な物語として流されてしまいがちだ)。だが同時に、同級生たちと女とのエピソード(たとえばボブ鈴木の「リコーダー」をめぐるエピソード)があり、亡くなる直前の女の「現在」にかかわる、四人の男たちが語るエピソードもある。一方で、主人公の男と女の間にある、閉じられ秘められていることによって貴重である特権的な感情と出来事があり(男はそれを忘れ隠蔽してしまっているが、女の幽霊が男にその解凍・再現前を要求する)、しかし他方で、多くの関係者たちによる多視点的なエピソードの重なりによって開かれる複合化された「女の立体像」がある。閉じられたものと開かれたもの。この二つの流れが同時に共存してあり、どちらか一方に還元されてしまうことがない。それがこの映画における重要な点で、この二本の線の共存が、女の幽霊を、(天ぷら油で汚れて見えない新聞の写真から)物理的な質量を持った存在にまで「育て上げる」。つまり幽霊が「ボールをぶつけられる身体」を持つに至るのだ。そして、女の「(物理的な時間と場所から切り離されている)幽霊」が「ボールをぶつけられる」物理的質量を持った「モノとしての身体」を得ることで、女と男との間の「秘められた(隠蔽されてもいた)関係」に落とし前をつけることが可能になるのだ。
幽霊が、時間と場所を失いつつも質量をもつという両儀的で矛盾した存在であるということ。この映画の貴重さは、ここにあるように思われる。
(ほぼ同じ時期、2001年の『回路』で黒沢清も、幽霊に「触る」ということ、幽霊が存在するなら「触れるはずだ」ということこだわっていた。)
「秘められた関係」に落とし前をつけた後、主要な登場人物が全員集合する、ラストの海岸の場面では、男(袴田吉彦)はすでに女(麻生久美子)との特権的な関係性を失っている(男は、重要な「絆」であり同時に「呪い」でもあった「ひまわりの種」をなくしてしまっている)。女はもう、小学校時代の同級生のうちの一人でしかない。この海辺の段階で初めて「葬儀」を行うことができる。女(麻生久美子)と特権的な関係にあるのは、(亡くなる直前まで女の「現在」にかかわっていた)北村一輝であり田中哲司であって、袴田吉彦ではない(だから男は、現在、関係の危機にある「現在の恋人」からの電話に出るのだった)。
⚫︎この映画の物語は、「女の死の真相」そして「男と女の間に何があったか」ということが「謎」として機能するような形に、一応はなっている。言ってみれば、回想的過去への遡行=謎の解明という、極めて安易な構成だ。しかし、映画の進行(描写)は、謎の解明よりも「真鍋朋美」と名付けられた女性の存在の仕方の描出に強く傾いて費やされ、謎や伏線の回収を置き去りにする。
(追記。映画とは直接関係はないが、20歳代の終わりから30歳前後くらいの時期に、「小学校時代の過去」が不意にとても近く感じられることが、確かにあったな、と、映画を観ていて思った。ぼくがこの映画を観たのは30歳代半ばくらいの頃だ。)