⚫︎U-NEXTで『クニコからはじまる話』(岩澤宏樹)。うーん、冴えないというか、いまいちというか。『死画像』の「クニコ」とはほぼ関係ないが(まったく関係ないとまでは言えないが)、関係なくてよかった。「クニコ」はそれ自体として過不足ない傑作なので、あの話をそれ以上掘っても幻滅しか生まないだろうから。以下、ネタバレしているので注意。
⚫︎話の核になっているのは、『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』と同様に、存在するのかしないのかわからない(存在と非在の間にあり「住所」だけではアクセスできない)巨大廃墟で、そこから持ち出してしまった呪いのビデオテープをなんとかしてそこに返したいというモチベーションが話を動かしている。しかしそれはあくまで「取材対象者(内藤さん)」の「気持ち」の問題で、仮にうまくその廃墟に辿り着いてビデオテープを返せたからといって、それでどうにかなるという根拠は何もない。根拠はないが、呪いから逃れたい一心で、藁をも掴む気持ちで、根拠の薄弱な仮説に縋っているのだ。この、呪いから逃れたい切迫した希求が、2時間近い映画を成立させるための展開を引っ張る動力である、と、とりあえずは言える。
取材者の二人は、『死画像』劇場版というコンテンツを例立させるために、取材対象者である内藤さんに協力する。取材者側は実話ホラーの映像コンテンツを作る会社であり、これまでに集められた資料映像のアーカイブがあり、心霊方面の取材のノウハウがある。このような方便(設定)によって、モキュメンタリー+ファウンドフッテージという形式が成立する。
ここで重要なのは、目的が、廃墟を見つけてそこにテープを返すことで、廃墟の謎や呪いのテープの謎を解くことではないという点だ。そもそも合理的なものではない「幽霊」や「呪い」の謎を「合理的に解明する」ことに意味があるのか、その時に問題となる「合理性」とは何 ? (たとえば「霊能者」による「霊視」は呪いを解明する手段として「合理的」と言えるの ? )、という「幽霊謎解き物語の罠」を逃れている(ミステリのように、謎が完全に合理性に解消するのなら話は別だが)。幽霊という存在、あるいは現象のリアリティは、夢のリアリティに似ていて、それを整合的な物語として整形してしまうとリアリティが失われてしまう。
だから、謎が物語を引っ張るにしても、その「謎」は、どうしたらその廃墟にアクセスできるか、であり、その廃墟とは一体どのような存在なのかを探ることではない。あるいは、呪いを解除するための段取りとは何かであって、呪いの力の根拠・根源の解明ではない。でもそこで、その「アクセス方法」や「解除の段取り」を、結局「作者」が恣意的に設定してるだけのものじゃないの、と思ってしまうと、それはホラーではなくただのパズルゲームになる。なので結局は、アクセス方法が「廃墟の存在の(決して解明されない)謎の手触り」に裏打ちされている必要があり、解除方法が「呪いの(決して組み尽くせない)力の根拠の手触り」に裏打ちされている、という感覚があることが必要であろう。
何が言いたいかと言えば、解かれるべき謎(アクセス方法)よりも、解かれるべきではない謎(廃墟の存在の根拠)のリアリティこそが重要であるのだが、後者を、物語を引っ張るための(物語上で解こうとする)謎にしてしまってはいけない、ということだ。前者が、整合性を求める物語の論理であるとれば、後者は非合理的な夢の論理によってできていて、ホラーのリアリティは後者によって成立している。だから、両者を混同して、夢の論理を物語の論理で整形してはいけないのだ。
「クニコ」のような短編ホラーは、主に後者の夢の論理でできているか、あるいは、物語の論理と夢の論理が同時に走っているとしても、常に後者が優位で前者を食い破り気味に進行させることができる。しかし、ある程度以上の長さを持つ長編を成立させるとすると、(最終的に逆転するとしても)段取りを整えるために物語の論理を前面に出していく必要があり、夢の論理は後方でチラチラとその存在を示しつつ作品の「厚み」を支えるという役割になるだろう(デヴィッド・リンチのように長編でも後者が前面にでる作品はいくらでもあるが、それはジャンル映画としてのホラーにはならないだろう)。ホラーとは言えないが、たとえば黒沢清の『CURE』などがそれを巧みに実現している例だろう。しかししばしば長編ホラーでは、後者を「解くべき謎」の対象してしまって、夢の論理を、中途半端な形で物語の論理で整形してしまおうとして薄っぺらくなるのだ(整形ではなく、徹底して「探究」すればフロイトになるかもしれないが)。
で、この『クニコからはじまる話』は、そこはうまく回避している(いや、終盤でチラッと、呪いの根拠のように「今昔物語」や邪教のようなものを出してきたりして、回避しきれていない感じが見えたりするが、概ね回避している)。多少なりとも真相・深層に迫ったかのように見えて、呪いが数珠繋ぎに広がっているのが明らかになっただけで、実は何一つとして解明されていない。そこは良いと思う。ADが生きているのか死んでいるのか問題が放置されたまま終わるのもいいと思う。この作品のイマイチな感じは、それとは別のところにある。
⚫︎一つは単純に、モキュメンタリー+ファウンドフッテージという形式がそろそろ限界に来ているのではないか、ということ。この形式でなければもっと切り詰められるだろうところを、ダラダラと見せられ続けるし、それも、終始、追い詰められ、緊張感を漲らせ、思い悩み、ビクビクと怯えた表情の「内藤さん」ばかりをずっと見続けているのはきつい(映像に変化がなさすぎる)。それを解消するためであるかのように、取材者の一人が若い女性だったりするのだが、そもそも「そういうやり方」がどうなの、という話でもある。ただ、この女性は常に冷静で、女性をことさら怖がらせたり叫ばせたりさせていない、というのは少し新しいかもしれない。ドキュメンタリーという体だとしても、内藤さんなどは明らかに「素人であるかのような俳優の演技」を強いられているのだし、ずっと観ているうちに、それだったら普通に「演技」すればいいんじゃないのという気持ちにもなってくる(ある一つのトーンの演技ばかりをずっとやらされ続けていて辛そう)。2時間近く観続けていると、ドキュメンタリー的な生々しさよりも、映像の単調さの感じの方が勝ってしまう。
物語は、実地の調査と、関連すると思われるフッテージの発見という、二つの方向で進むが、話が複雑になってくると前者の段取りがどうしても冗長になってしまう。劇映画だったら圧縮できるこの「冗長さ」の中にそれ独自の面白みを作り出す必要があるのではないか、と感じた。
⚫︎仮に、モキュメンタリーやファウンドフッテージという形式にある程度の今日的な新しさがあると認めるとしても、具体的に「恐怖」を惹起させるためのギミックの一つ一つが、90年代のJホラー初期から繰り返し使われてきた手垢がついたものが多いように思えた。呪われた者たちが「歪められてしまった」と嘆くのだが、「歪んだ形」が怖いというのは、Jホラーの初期の初期からやられていることだし、全体として怖がらせ方に新鮮味が感じられなかった。和装の喪服の女性の後ろ姿とか、よくあるイメージすぎないだろうか。AIの使い方もあんまり面白くない(AIのする「現実の歪ませ方」ってそういう感じじゃないよね、と思ってしまった)。それと、呪いのオブジェクトがビデオテープ(クリーニングテープ)であるというのも、あんまり効果的ではないと思うし、特に面白くはないように思う(なぜビデオテープ ? 、と思ってしまう)。すでによくある「ホラーの怖がらせ方」ばかりのように感じてしまった。徐々に、取材対象者(内藤さん)の記憶そのものが怪しくなっていくのだが、ラストではそもそも「この作品の語り」それ自体が「信頼できない語り」であることが示されてて終わる。これも、よくあると言えばよくあると言えてしまう。
どこにあるのかわからないし、そもそもあるのかないのかわからない「幻の廃墟」の模型を、呪いの被害者の一人がマインクラフト的なゲームで作っていたというのはちょっと面白いが、それが作中では廃墟の見取り図のようにしか機能していないが残念で、このゲーム空間がもう少し現実とリンクしたりして、うまく活用されてもいいんじゃないかとも思った。
(閉ざされた空間の中に「祭壇」のようなものがあるらしいことはゲーム空間によって明らかにされるのだけど。)
⚫︎この作品で一番面白かった / 怖かったのが、ちょうど中盤あたりにでくる、若い女性が二人で「幻の廃墟」を散策(?)した、2007年に撮影されたとされるビデオ映像だった。それまで退屈気味だったのが、ここでビシッと目が覚めた。その直前に、まず、ゲーム空間内に作られた「座布団のある畳の座敷」として見せられたのと同じ空間が、ビデオ撮影の粗い音声と映像によって再び現れたとき、うわっ、これまじか、と口から声が溢れてしまったくらいびびった。それくらい異様だし怖かった。ここを観るためだけでも、この映画を観る意味はあると思う。
⚫︎あと、最後の方で「血のついたセーター」という物的な証拠が出てきてしまうのだけど、こうなるともう「呪い」や「幽霊」の領域ではなく「警察案件」になって物語のレベルが違ってしまうのではないかとは思った(セーターの在処を知っていた内藤さんが「犯人」であると疑われざるを得ない)。あのセーターはどう処理されたのだろうか。