ジェームス・マンゴールド監督の『17歳のカルテ』をビデオで

ジェームス・マンゴールド監督の『17歳のカルテ』をビデオで。

この映画は一見すると、内部と外部との間にある境界や、管理する者とされる者という対立が、絶対的ではないかのように描かれているかにみえる。精神病で入院しているはずの患者たちには、いかにも「狂気」を表象するような徴は与えられてなくて、外にいる人々との大きな差異は見られないし、監禁されているはずの患者たちだが、裏技ともいえるやり方を使って、比較的自由に外へ抜け出すことができる。(アンジェリーナ・ジョリーは、しばしば外へと脱走している。)外ヘの通路は何と、医者の診察室にも通じていて、患者である女の子たちは、医者が自分について下した診察内容が書かれたカルテさえも見ることができる。(つまり、病院の側が「情報」の占有によって患者を支配しているという構図が成り立たない。)病院の職員は皆善良だし、お目付役的な黒人の看護師にしても、看守的というより口煩いオバサンという感じだし、医者も、父親的というより母親的な存在だ。(女医だし。)68年頃という過去を舞台にして、主人公が思い出を語るという形式からくるノスタルジックな雰囲気もあって、「狂気」によって病院に「監禁」された少女たちの物語というよりは、ちょっと管理がキツめの女子寮か何かを舞台に繰り広げられる、ナイーブな少女たちの青春成長映画のように見えてしまうし、また、もしそうであれば、ぼくもこの映画をそれなりに良く出来たものとして楽しむことが出来ただろう。

しかし、そうではないのだ。ちょっと見には、たいした「狂気」らしい徴もなく、多少エキセントリックだったり危うい感じだったりするだけのように見える少女たちだけど、彼女たちは病院の「内部」(社会の外部)にしか居る場所がないという意味で、はっきりと「監禁」されている存在なのだ。事実、いともたやすく脱走できるにも関わらず、彼女たちはそこに居つづけているのだし、何度も脱走を実行し、かなり長期に渡って外で生活する能力にも恵まれているアンジェリーナ・ジョリーにしても、結局はしばらくすると病院に戻ってきてしまうのだ。この病棟の空間はとても面白いつくりになっている。病棟の入り口から入って右側に、長くて広い廊下が伸びていて、その両側にそれぞれの部屋が配置されている。そしてその廊下の一番奥に、患者たちがいつもタムロしているテレビのあるリビングのような空間がある。カメラは、必ずと言ってよいほどいつも、この奥の空間から入り口の方向へ向けられていて、入り口の方から奥へと向けられるのは、入院したウィノナ・ライダーが初めて病棟に足を踏み入れた時だけなのだ。つまりこの廊下の距離が、彼女たちと外とを隔てる空間の厚みとして常に可視化されているのだ。(一番入り口に近い場所に、発作を起こした患者などを隔離するための個室があるのが、アイロニカルなのだが。)廊下の中程には、外へと通じる秘密の通路が開けている芸術室という部屋があるのだが、そこは正式の出口たりえず(その先にあるのは実は地下の迷宮なのだ。)、そこから出たものは結局ここへ戻ってきてしまうしかないのだった。退院という正式な手続きを経て、廊下の先の方にある「入り口」から外へ出るしか、そこから逃れる方法はないのだ。

これは明らかに「狂気」によって世界の外へと「監禁」された少女たちの物語であり、友人の「死」をきっかけとして目覚めて、そこからの脱出=世界への帰還に成功したウィノナ・ライダーと、そこから出ることの出来ない他の少女たちとの間には、はっきりと「勝ち」と「負け」という色分けがなされているのだ。(つまり、そこには「成長」という美名に隠されて、「勝て、敗者になるな」という反60年代的な強いメッセージが込められてしまっているのだ。)にも関わらずこの映画は、「狂気」や「監禁」という印象が表面化するのを巧みに避けることで、ノスタルジックでチョイお洒落な青春モノという「きれいな」印象を観客に与えてしまうのだった。だいたい、病気が治癒することと、大人へと成長することは、本来まったく別のことであるはずなのに、まるでそれが同じことであるかのように短絡的に重ね合されてしまっているのだ。このような部分には、どうしたって欺瞞を感じざるを得ないだろう。

この映画は、68年前後を舞台としていて、語り手が現在の地点から思い出を語るという形式を採用している。しかし、この物語が60年代後半という時期に設定されなければならない必然性は何処にもない。たんに、懐かしいあの時代、という雰囲気が出れば何時でもいいのだ。それに、現代の地点から過去を語っている語り手が、現在どのような状況に置かれているのかも全く語られない。語り手は全く安全な位置にいる超越的な存在として過去を物語っているだけなのだ。(たとえばイーストウッドの『マディソン群の橋』では、実際に語られる物語と同じくらいかそれ以上に、語られていない、その物語の後のメリル・ストリープの人生の時間の重みが強く意識されるのだったが。)つまり現在の彼女が、どのような状態で、どうしてこの物語を語ろうと思ったのかは不問にされている。退院したからといって全てが解決した訳ではないのだし、それに病院の内部では、その後もずっと女の子たちの闘いはつづいているはずなのだ。(物語の終りでは、何も終わっていないはずなのだ。)そして彼女たちのその後について、現在という地点から物語っている語り手はある程度は知っているはずなのに、それについては触れようとしない。「何人かの人とは会うことが出来たが、何人かの人とは会えなかった」みたいな、曖昧なナレーションで済ましてしまっている。あれだけ関係の深かったアンジェリーナ・ジョリーについても全く触れないというのは不自然ですらあるだろう。つまり「勝者」である語り手にとっては、あの病院での出来事はすでに終わってしまった、完結した過去の思い出に過ぎず、それが現在の自分に向かって何かしらの影響を与えてくることであって欲しくないのだ。(それが現在の自分を揺るがすものであってほしくはないのだ。)それが思い出である限り、ヤバい部分には全てフタをして美しく語ることができる。物語はいつも、勝者の都合の良いように語られるのだ。たんに大人へと成長するための通過儀礼のようなものとして。

それにしても、ウィノナ・ライダーアンジェリーナ・ジョリーといった女優の演技はとても魅力的ではあるし、2人の関係の描き方なんかも結構巧みで、ある種の少女漫画なんかが好きな女の子とかに、凄くウケたりするのは、まあ、理解はできるのだが。