小沼勝の『NAGISA』をビデオで

小沼勝の『NAGISA』をビデオで。ある1人の齢若い女の子の身体が、世界のただなかにあり、その身体が、世界が彼女に向かって投げかけてくる様々な表情の変化に感応し、様々な試練のなかでしなやかに運動している様を映しだすこと。おそらくそれは、映画というものが発明されて以来、映画という表象装置によって、呆れるほど飽くことなくくり返し描かれてきた「クリシェ」だと言えるだろう。すらりとして背の高い、手足の長く延びたその身体を無造作に投げ出すようにして畳に寝転び、自身の姿がカメラによって捉えられているのだということすら意識から消えてしまっているのではないかと思われるほど一心な身ぶりで走り抜け、ほとんど海水と同化するかのように紺色のスクール水着で泳ぐこの映画の主人公の姿を目で追いながら、ああ、こういうのどこかで見たことがあるなあ、と感じ、今どき、こんなに楽天的に「映画的」であってもよいのだろうか、と思いもする。まさにこの映画は、演出も劇作も、「いかにも映画的」というようなクリシェに満ちているのだ。「いかにも映画的」という範疇のなかでは、とてもいきいきと躍動してはいるのだが、自身の身体が時おりふと性的な表情を纏ってしまうことがあるのだということに薄々気がついてはいて、そのことに軽い戸惑いを憶えたりしつつも、しかし大体においてごく無造作に自分の身体を扱っていることから生じる、この年齢特有のある種の無邪気さというか無防備な身体的な表情を、これ見よがしにミエミエで狙っているカメラの存在を感じたりすると、うーん、実はこういうのこそを「紋切り型」(あるいは「性的搾取」?)というのではないだろうか、とも思ってしまう。だが、しかし、確かにこの映画は括弧つきの《映画的シーン》、映画が映画を自己模倣したようなシーンばかりで出来ているとも言えるのだが、、そして「これはその程度の映画である」ということを前提とした上でという話なのだが、それでもこの映画には心地よく騙されてしまいたい、と思わせられるくらいには良い作品なのだと思う。

この、少女の「ひと夏の経験」が描かれた映画は、全くお約束通りに、通信簿を貰って帰ってくる学校の帰り道から始まる。この映画で語られる物語は、本当に何の工夫もない「ひと夏の経験」に過ぎない。見方によっては、全く陳腐で何の野心もないクリシェだけで出来ているとも言えてしまうこの映画が、それでも見るべき何かがあるとしたら、ここでおそらく11~12歳くらいだと思われる物語上の主人公が、現在、実際に11~12歳という現実の生を生きている身体によって演じられている、という一点にのみあるように思う。この映画は、昭和40年代はじめ(1960年代後半ではない)を舞台としてノスタルジックに語られるもので、部分的には、これじゃあ「ちびまる子ちゃん」になっちゃうじゃん、と思えてしまうような所もあったりするのだが、しかしその「昭和40年代の少女」を演じているのは、まさに今、現在を少女として生きている身体であるという事実(実写映画というのは、そのようにしてしか作ることができないのだが)、その事実こそが(その事実のみが?)、この映画の現在性を支えているのだと言える。この映画に出ている松田まどかは、例えば相米慎二の『お引っ越し』の田畑智子ほどの特異性にまでは達していないし、映画自体も相米の作品のもっている「強さ」には遠く及ばないというべきだろう。しかしそれはそれで良いのだ。この映画はそういう「強さ」においてあるような映画ではない。何か突出した特異な存在がそこに居るという訳ではない。特に冴えているという訳でもない1人の人物が現実に居て、その身体が世界の様々な表情のそれぞれにに感応することで、その力に促されるようにして、幾つもの身体のイメージへと揺れ動くように分裂してゆき、それでもそのひとつひとつがその人物の固有性とともにあるイメージであるということ。この映画が示しているのはただそれだけのことであり、この映画を観るというのは、ただそれだけのことを認めるということ、尊重するということであり、それ以外のものは何もないのかもしれない。(だから、この映画の松田まどかを肯定する、というのは、彼女が今後この世界で女優としてやっていけるだろう「才能」を認めるとか、あるいはファンになるとか、そういうこととは全く違うことで、ただこの映画にあらわれるイメージとしてだけ、しかしそのイメージが全て実在する松田まどかという存在の、ある時間における事実であるということにおいて、その数々のイメージを尊重するということであるのだ。)