宮崎駿『風の谷のナウシカ』

宮崎駿風の谷のナウシカ』を、十何年ぶりかでDVDで観た。宮崎氏は、時間的に展開してゆく物語を語る作家ではなく、自らが魅了される様々な運動のイメージ(飛んだり、疾走したり、落下したり、爆発したり)のバリエーションを描く作家であり、そのような運動のイメージと一体化した少年や少女が、個人の力ではどうすることも出来ないような大きな状況(対立の構図)に巻き込まれながらも、けなげにも、その運動能力(のイメージ)のバリエーションを最大限に駆使することで、状況を動かしさえする力を持つ姿を示し、その姿によって、それを観ている観客も(そしておそらく宮崎氏自身も)、自らの存在や能力が拡張してゆくかのように感じられる「イリュージョン(の感触)」をつくりだす作家だと言えると思う。つまり、ただ、運動のイメージのバリエーションを描くだけでは、「主体が拡張してゆく感じ」というイリュージョンを作り出すことは出来ないが、しかし、展開する(因果関係によって律された)物語の秩序によってその運動のリアリティーを裏打ちしようとすると、物語の重力によって、運動感、浮遊感、拡張感が押さえられて抑圧されてしまう。だから、様々な運動のイメージのバリエーションが、そこから自然に発生してくるような、状況の空間的な設定(つまり世界観の設定)こそが重要になる。様々な形態、様々な強度の運動するイメージのバリエーションが、そこから自然に引き出せるような構図(世界観の設定)が出来た時には、宮崎氏の作品は自ずと充実したものになるだろう。(だから、宮崎駿は物語の展開=時間の作家ではなく、構図の広がりや配置=空間の作家なのだ。つまり、物語的展開=時間の進行が希薄で、ただ世界観=構図によって導きだされる、様々な運動のバリエーションのみがある。)そのような意味で、宮崎氏の最も充実した作品は、テレビシリーズの『未来少年コナン』だと思う。この作品が凄いのは、たんに宮崎駿のすべてと言うべき、質、量ともに充実した多様な運動するイメージのバリエーョンがみられるというだけでなく、コナンによる運動のイメージの強さや密度が、作品の世界観の設定を越え出て独立し、世界観に裏打ちされる必要がないほどに、運動のイメージが充実し、それ自身の強さによって、作品が引っ張られ、成立しているようにみえるところにあると思う。
●上述したような意味では、『風の谷のナウシカ』はそれほど成功しているとは言えないと思う。それはこの作品が、宮崎氏による長大な原作を持ち、そのダイジェスト版のような性格を持ってしまっているから、というだけではない。この作品では、世界観や「思想」の枠組みのようなものがあまりに強く前に出ており、それがナウシカの運動感を抑制してしまっているように感じるのだ。例えば、宮崎氏の描く可憐で果敢な美少女たちは皆、意外なほどに好戦的で、「愛する者」のためならば、暴力や殺戮をそれほど躊躇しない(ラナやクラリス)。そのような好戦的な性格が、宮崎的な美少女キャラの重要な「萌え要素」のひとつにもなっているように感じられる。対してナウシカの行動は、「争いを避ける」という理由(理念)に徹底して基づいている。その内面に、強い怒りの感情による震えを抱え込みながらも、ナウシカは「闘いを避ける」ためにのみ行動をするという抑制から外れることはない。(例えば、愛する父親を殺した相手を、あっけないほどすんなりと受け入れる。)このナウシカの姿はきわめて美しく感動的だし、「思想」的に正しい。(例えば、去年のアメリカの大統領選挙の前に、マイケル・ムーアの作品ではなく、この作品が全米で公開されていたとしたら、と、つい思ってしまう。)しかし、この美しさ、正しさは、宮崎作品を宮崎作品として成立させている魅力とは相容れないようにも思える。この徹底した「非戦」的な態度によって、宮崎的な運動のイメージは縮小し、宮崎的な美少女キャラはそのエロティックな魅力を縮減せざるを得ない。おそらく宮崎氏は、この事実、というか、矛盾に、『風の谷のナウシカ』を製作することによって真正面からぶち当たってしまったのではないだろうか。だからこそ、『ナウシカ』以降の作品は、それ以前のような無邪気な「快感原則」に基づいた運動のイメージと戯れたものとしては成立せず、どこか屈折(や言い訳)を含んだものとなってしまっているのではないだろうか。
●『風の谷のナウシカ』を観ようと思ったのは、細野晴臣がつくって安田成美が歌った『風の谷のナウシカ』をとても聴きたくなったからなのだが、本編には、この曲はまったく使われていないのだった。あれはすごくいい曲だと今でも思う。