「図」と「地」と、ヴァ−ジニア・ウルフ

●「図」と「地」というのが問題とされる時、「地」というのは、見えるもの(図)を見えるようにしている「見えないもの」のことだ。我々が見ることのできるもの、感じることのできるものは全て「図」であり、それは見ることも示すことも出来ない「地」によって支えられている。白い壁に青い四角が描かれている場合に、青い四角を見ている時、白い壁は地としてその像(図)を支えているが、白い壁を認識する時は、例えばその部屋の空間全体が地となって白い壁という像(図)を支えている。そして、見えているもの(例えば「白い壁」という像)は、見えていないもの(部屋全体の空間のあり様)によってこそ、その見え方が決定されている。作品をつくる時、見ることの出来るもの(描けるもの)を見えるようにする(描く)ことで、見えているものだけでなく見えていないものまで含めた「ある環境」全体が意識されていなければならない。もっと言えば、見ることの出来るもの(描くことの出来るもの)を操作する(描く)ことによって、見ることのできないものまでを「動かす」というところまでいかなければつまらない。今日、読んでいたヴァ−ジニア・ウルフの『存在の瞬間』に、次のような部分があった。
《しかし、もちろん私の人生の記述としては、それらは誤った印象を与えやすい。なぜなら人が憶えていない事柄も同じくらい重要だからである。おそらくそれらはもっと重要なのだろう。(略)日常の日々は、存在より非存在の方をはるかに多く含んでいる。たとえば昨日、八月一八日火曜日はたまたまよい日だった。つまり平均以上に「存在」のうちに過ごされた。天気は晴れていた。私はこれらの最初のページを楽しんで書いた。頭はロジャーについて書くことの圧迫から解放された。私はマウント・ミゼリーを越え川沿いに散歩した。干潮だったほかは、いつも私が間近かに見る田園は、私の好むような色あいと影から成っていた---柳があってどれも羽毛のようで、青空を背にやわらかい緑色と紫色をしていたことを思い出す。また、チョーサーを楽しみながら読み、一冊の本---ラファイエット夫人の回想録だが---を読み始め、興味をひかれた。しかし、これらの別々の存在の瞬間は、もっとはるかに多くの非存在の瞬間の間に埋めこまれている。レナードと私が昼食ときやお茶の時間に何について話したかを、私はもう忘れてしまっている。よい日だったけれど、そのよさは一種言い表し難い綿の中に埋められているのだ。このことは、いつでもそういうふうになっている。毎日毎日の大部分は意識して生きられてはいない。人は歩いたり食べたり、ものを見たり、しなければならないことを処理したりする。こわれた真空掃除機、夕食の注文、メイベルに言いつけを書くこと、夕食の料理、製本。わるい日だったときは、非存在の割合がもっとずっと大きい。先週、私は微熱があった。ほとんど一日中が非存在だった。真の小説家はどうにかして両方の種類の存在を伝えることができるのだ。ジェイン・オースティンはできるし、トロロープもできると思う。おそらくサッカレーディケンズトルストイも。》
存在(図)は非存在(地)のなかに埋め込まれていて、存在だけをみることは「誤った印象を与えやすい」。しかし、非存在は「一種言い表し難い綿」のようなもので、それを掴むことは困難だ。
あらゆることを意識することは出来ない。意識は、意識できないメカニズム、意識できない下地の上で、はじめて浮かび上がる。重要なのは、意識できないそのメカニズム=下地をつくることであり、動かすことである。しかしそれは、意識(意思)の力だけではどうすることも出来ないだろう。しかし、何かしらのアプローチは可能だろうと思う。岡崎乾二郎が、クレープの生地には「熱とともに空気と時間までが練り込まれ」ていて、それは「食べる」ことだけでは味わい尽くせない、と書く時に問題にされているのも、おそらくこのことと関係する。しかし、よいクレープとはおそらく、そこに練り込まれた熱や空気や時間までもを感じさせることができるようなもののことなのだ。