引用『世界共和国へ』(柄谷行人)より

●覚え書き、引用。『世界共和国へ』(柄谷行人)より。
●宗教によって理念が生まれたこと。
《ここで強調しておきたいのは、普遍的な宗教は社会運動を生み出したとはいえ、それ自体けっして政治的・経済的な運動ではなかったということです。十九世紀の社会主義者にはイエス社会主義者と見る人たちが少なくなかった。カウツキーも原始キリスト教社会主義運動としてとらえています。仏教にも似たようなことがいわれます。だが、そのような考えは事実に反しているといわねばなりません。普遍宗教がもたらしたのは、自由の互酬性(相互性)という倫理的な理念て゛す。それが政治的・経済的平等を含意するにいたったとはいえ、後者が至上目的ではなかった、ということを忘れてはならないのです。》(p101〜102)
●「国家」が存在する。
《国家が略取-再分配という交換様式を独占したということは、絶対主義王権の時期には、誰にとっても明らかでした。なぜなら、王が封建諸候を制圧した「絶対的」な支配者であることは明白だったからです。ところが、市民革命以後には、そのことがわからなくなる。なぜなら、国家の主権者は国民であると考えられるからです。国家は国民によって選ばれた政府と同じようにみなされる。たとえば、絶対王権では王が税を徴収しそれを再分配していたのに対して、いまや、国民が義務として自発的に納税しそれを再分配するかのように考えられるようになります。》
《たとえば、かつては、資本家が労働者に君臨していましたが、現在では、資本と経営が分離されています。また、大企業においては、経営者は社員の中から選ばれています。いちおう誰でも末は社長になれるかのように見えるのです。その意味で、経営は社員の総意によってなされるかのように見えます。実際、資本制企業を経営だけで見れば、「労働者の自主管理」とさほど違いありません。しかし、この経営は窮極的に、資本(株主)に拘束されているのです。社員の総意がどうあれ、経営者は資本の要求--利潤の実現--を満たさなければならない。》
《市民革命以後の国家・政府・国民の関係は、このような株主・経営者・労働者の関係に類似するものです。絶対主義王権国家において、国家の存在は明白でした。しかし、市民革命以後、それは隠れてしまいます。それを見ようとすると、われわれは国家ではなく政府を見いだすことにしかなりません。もはや資本家は存在しない、という意味で、もはや国家の主権者は存在しない。だが、資本が存在するという意味で、国家はあくまで存在するのです。このことは通常は見えません。しかし、株主が経営者を解任したり企業を買収したりする場合、ひとはまさに「資本」があるということを実感するでしょう。同様に、国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。》(p113〜114)
●グローバリゼーションと国家(主権国家は必然的に、他の主権国家を生じさせる)
《「資本の輸出」が全面化し、金融資本が世界を席巻する時期、つまり、資本主義のグローバリゼーションと呼ばれる一九九〇年以後の時期に、ある人々はそれを「資本主義の最高段階」と呼びました。ある人々は、それによって近代の国民国家の枠組みは無効になり、ヨーロッパ共同体のような「帝国」(広域国家)になるといっていますし、またある人々は、多国籍的な資本主義こそあらたな「帝国」だといっています。
しかし、このような見方はいずれも国家の自立性を無視するものです。つまり、国家が資本主義経済とは別の源泉にに由来するものだということを見ないものです。資本と国家のどちらが根源的であるかという問いは愚問です。それらは、違った基礎的交換様式に根ざしており、また、相互依存的でもありますから、一方が他方を全面的に廃棄するようになることはありえないのです。国家なしに資本主義はないし、資本主義なしに国家はない。そして、そのような国家と資本との「結婚」が生じたのは、絶対主義国家(主権国家)においてです。》
《ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権者)は、王が都市(ブルジョア)と結託して、封建的諸候を制圧し、集権的な体制を作ったときに成立しました。それを可能にしたのは、強力な火器と貨幣経済です。しかし、これをたんに一国だけで考えることはできません。そもそも、これは世界市場の形成によって可能であったのだから。さらに、主権国家は他国との関係なしにはありえません。というのも、「主権」とは、一国だけで存在するものではなく、他の国家の承認によって存在するものだからです。そして、主権国家は、他国が主権国家でないならば、支配してもよいということを含意します。》
《その意味で、主権国家は本性的に膨張的なのです。主権国家の膨張を止めるのは、他の主権国家だけです。あるいは、それに支配された地域が独立し自ら主権国家となることによってのみです。したがって、主権国家は必然的に主権国家をもたらす。このことは、絶対主義国家が市民革命によって国民国家に転じても同じことです。》(p204〜206)
マルチチュード批判
《資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は消滅しません。それは商品交換の原理とは別の原理に立っているからです。たとえば、十九世紀のイギリスの自由主義者は「安い政府」を唱えましたが、実際にイギリスの「自由主義帝国主義」を支えたのは、強大な軍事力であり世界最大の課税でした。》
ネグリとハートの考え方は、実際はプルードンがいったように、深層の「真実社会」--そこには多数的、創造的な民主主義がある--という考えに近い。いいかえれば、これはアナキズムです。》
《先に述べたように、マルクスプルードンに影響を受けて、諸国家を超えてその基底に存するような「市民社会」を想定しました。そして、そこにおけるプロレタリアの自己疎外の廃棄=絶対的民主主義の実現が、グローバルな国家と資本の揚棄になるだろうというヴィジョンを描いたわけです。ここで、プロレタリアのかわりにマルチチュードといえば、ネグリとハートの考えになります。彼らは要するに、プロレタリアによる同時世界革命のかわりに、マルチチュードによる同時世界革命を唱えているわけです。》
《私は先にこう述べました。マルクス国家主義的であったことが、国家主義的な独裁体制をもたらしたのではない。むしろ、国家が簡単に死滅するだろうという見方が、それをもたらしたのだ、と。あるいは、国家をその内部だけで考える見方が、それをもたらしたのだ、と。ゆえに、われわれはこの種のアナキズムに対して警戒すべきです。》(p215〜218)