●鎌倉まで行って、帰ってきた。蒸し蒸しするというより、ぬるぬるするという感じの陽気。血液が頭部に滞る。
●夜中から明け方にかけて、『鉄男』(塚本晋也)をDVDで観た。はじめて観た。
最初に出てくる、自分の足に鉄の棒を埋め込もうとする男(塚本晋也)と、次に出てくる、からだが鉄に浸食されてゆく男(田口トモロヲ)との関係がよく分からない前半が面白かった。この二人が一つの存在の表と裏で、最初に出てきた方の男の鉄への執着が、その裏側の男のからだをむしばんでいったり、駅で鉄女に出会わせたりする、という風に感じられた。鮮明に描かれる田口トモロヲの側の世界に対して、鉄に捕らわれている男や、繰り返される交通事故のイメージ(鉄と肉の貫通)は、遠く、不可解で、不鮮明なイメージであることが、むしろそちらの方がリアルであり、鮮明に描かれている世界を深層で規定しているというように感じられる。
こちら側の世界のとして鮮明に描かれる、男が鉄にむしばまれてゆく描写と、遠くて不鮮明な、「もう一つの世界」の予感とが、明確な階層構造をもつことなく、短絡的に接続され、二つの境界が不明瞭な感じで並べられる。遠く不明瞭でありながら、ある不気味な感触によってリアルである世界と、明確なテクスチャーによって目に見える密度の濃さをもった世界とが、どちらが主でもどちらが従でもなく、混じり合わないまま切り離されてあることで、互いに相手の側を根拠づけ合ってているという感じ。
そしてとうとつにあらわれる「ドリルちんこ(ちんこドリル)」のイメージが、この切り離された二つの世界を貫く力を示す。ほとんど小学生並みに幼稚な「貫く力」としてのドリルちんこ。これは勿論、男性の能動性を示すものなとではなく、自分の外にあるどこかからやってきて勝手に隆起してくるものであり、実際、このドリルちんこによって女性との性行為が不可能になる。そして、「貫く力」としてのこのイメージは終盤、二人の人物が融合する場面で、排便(うんち)的なイメージへと変換されて反復する。
境界が不鮮明であると同時に混じり合わない二つの世界の捉えがたい並立だった世界は、このドリルちんこの出現によって、分かり易い二分法となり、物語に説明が与えられる。二人の人物の対決という分かり易い話になる。しかし、この対決や物語の説明は、そもそもこの作品世界を制御している鉄への執着、不可解なものがからだからわき出してきてしまうことへの恐怖、遠く、不鮮明な世界からの力が、こちら側の世界へと吹き出してきてしまうこと等を、まったく説明しない。物語が何も説明しないことによって、この作品のリアリティは保たれる。
とはいえ、異なる次元として混じり合わないまま互いを規定していた二つの世界が、同じ空間のなかに並べられるの二人の人物へと変換されてしまうことで、作品がやや単調になってしまったことは否定出来ないと思う。こうなってしまうと、どんどんテクスチャーをぐちゃぐちゃ、どろどろにしてゆくことで「強さ」を保つしかなくなり、ぼくはそうなってしまうとちょっと退屈だと思ってしまう。二人が一体化してしまうというラストも、落としどころとしては安易なように思えた。
この作品には上記したことには還元できない様々なモチーフが散乱しており、それらのモチーフがその後どのように展開してゆくのかも気になった。観ていて、リンチの『イレイザーヘッド』を思い出した。しかし、リンチの世界には決してドリルちんこは出てこないのだが(いや、『デューン砂の惑星』の「虫」はドリルちんこにちょっと近いかも)。