●永瀬恭一さんに画像を提供していただけたので(自分で撮ったはずの画像は行方不明)、「works 古谷利裕」に、『「組立」 (永瀬恭一×古谷利裕)  2008年6月16日〜29日 masuii R.D.R gallery・埼玉(展示風景)』を追加することができしました。
https://note.mu/furuyatoshihiro/m/mc2ed923be97d?view=list
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/neb35a28aec20?magazine_key=mc2ed923be97d
●「わからない」という言い方は時として(というか、往々にして)、対他的には強い否定のニュアンスを含んでしまうのでそれを使う時は気を付けなければいけないのだけど、ぼくが「わからない」という場合は、たんに「わからない」のであって、別に何かを否定しようとしているわけではない。わからないものについては「わからない」のだから否定など出来ない(わからないことを安易に否定すべきではない、ということ)。
「わからない」というのはつまり、自分の脳や体をつかってそれ(思考の筋道なり、納得のあり方なり、感情の粒立ちなり)を再現(シミュレーション)しよう試みる時に、そのためのとっかかりやヒントすら掴めないという状態のことを言う。わからないことは本当にわからないのだ、ということをわかるためには、本気で全身を使ったシミュレーションを試みなければならない。
そして、「わかからない」にも二種類あって、「わからないけど興味がある(なんとかして分かりたいと願う)」場合と、「わからないし興味もない」という場合だ。後者の場合でも、勿論それを否定しようということではない。一人の人間でしかない自分が世界のすべてを理解できるはずはないのだから、自分にとって世界の大部分は「わからないし興味もない」という風にならざるを得ない(能力の問題)。
だから、わかる、わからないというのは縁のようなものではないか。この地球上には七十億人以上の人がいるとしても、一人の人間である「わたし」が知り合える人はそのなかのごくごく一部でしかない。大多数の人に対しては、その存在すら知ることが出来ない。存在すら知り得ないものは、どうしたって「わからないし興味もない」となるしかない。それは、関係ないということではない。関係は確実にあるだろう。しかし、関係が確実にあるだろうものに対しても、わたしは「わからないし興味がない」という風にしかなれない。これは態度の問題ではなく能力の問題だ。
世界中には膨大な人間がいるにもかかわらず、わたしが知り合えるのはそのなかの極めて少ない人数でしかないように、この世界のあらゆる出来事のなかで、わたしが「わかる」と感じることが出来るのはごくごく一部のことでしかない。そしてそれを分けるものは偶然でもあり運命でもあるもの(つまり縁)であろう。世界の大部分のことがらに対して、わたしは「わからないし興味もない」という風でしかいられない(繰り返すがこれは能力の問題だ)。そして、わたしにとっては、どうひっくりかえしても「わからないし興味もない」でしかないことがらが、かけがえなく切実な問題である人も、確実にいる。