●ここ数年、アニメと「サイエンス・ゼロ」以外はテレビをほとんど観なくなってしまった。とはいえ、ドラマはTSUTAYAで借りて観ることがあるし、バラエティもYouTubeで観ることはある。たまに、YouTubeで、五分くらいに分割されているバラエティをだらだら追っているうちに一日が過ぎてしまうという、まったくダメな日を過ごすこともある。
(YouTubeにアップされているあの細切れのテレビ番組の著作権はどうなっているのだろうか。)
たとえば、ミラクルひかるの動画を次々と追っかけて観ているうちに、いつの間にか山本高広に移行してゆき、そうしているうちに初めて見る若いモノマネの芸人をみつけて、ああ、こんな人がいるのか、と思ったりする。ただ、バラエティの動画は放送日が書かれていないことが多くて(アップした日は書かれているけど)、普段リアルタイムでテレビを観ていれば、そこに映っている芸能人の配置でだいたいいつ頃のものか分かると思うのだけど、テレビを観ないので「最近のバラエティにでている旬な人たち」が分からないから、「最近はこんな人が」と思っても、それは最近ではないかもしれない。さすがに、十年前くらいのものだと「古い動画」だと分かるけど、ここ五、六年くらいだと「どの程度最近」なのか分からない。あの初めて見た人とこのはじめて見た人とではどっちが新しいのか、というような時系列が分からない。
(たとえば、山本高広による坂上忍のモノマネを今日はじめて観たのだけど、それがどの程度最近のネタなのか分からないし、前田敦子のモノマネをする小林礼奈という人をはじめて観たのだけど、どの程度に最近の人なのか分からない。)
おそらくバラエティというのは「旬」であることが重要で、ある程度安定したおなじみの顔ぶれのなかに、一定の割合で「旬である人」が混じっていることによって生み出される「今」感が命みたいな感じだと思うのだけど、YouTubeのようなアーカイブで観ていると、「今」とか「旬」とかいう概念が成り立たなくなる。
(しかし一方で、こういうことは検索すればすぐにわかる。アーカイブには、時系列や因果関係に関する記述もまた保存されているから。でも、検索によって分かった時系列は、「今」感を生成しない。「今では検索すればすぐわかる」ということの方に「今」感がある。)
ぼく自身の過去の感覚だと、テレビのバラエティにのめり込む時に、そこから最も強く感じていたのは「今」、あるいは「新しさ」という感覚だったように思う。「ひょうきん族」は「ドリフ」より新しかったし、「ごっつええ感じ」は「ひょうきん族」より新しかった(それに比べ「ワンナイ」からは新しさを感じられなかった、とか)。しかし、それを現在の地点から振り返ってみると、その「新しさ」の感じは消えて、それぞれの「タイプの違い」としてあらわれてくる。
八十年代の始め、リアルタイムで観ていた時に「ひょうきん族」は、新しい何かとして「ドリフよりもずっと面白い」という感覚として立ち現れてきたのだけど、現時点で観るとそこにあるのはたんにタイプの違いであり、形式の違いでしかない。そしてこの「新しさ」は、ただ自分にとって新鮮であるというだけでなく、この世界にとっての新しさとして受け取られていたと思う。「現在(時間の流れ)」がある程度は共有されている、あるいは他者たちとシンクロしているという感じがあってはじめて「〜の現在」という概念が成り立つ。
アーカイブという形式が「現在(今)」をなくさせる。「今」とは、「わたしがそれを見ている今」であって、隣の人はまったく別の「今」にいる。観測者の属する慣性系によってそれぞれ「今」が異なるし、時間の進む速度もことなる。
(そういえば、ミラクルひかる笠置シヅ子のモノマネをしている動画を観た。ぼくなどはギリギリ、お婆さんとなった、生きている笠置シヅ子をテレビで――カネヨンのCMなどで――観て知っているけど、ミラクルひかるは知らないはずで、おそらくYouTubeの動画で観てそれをマネしようと思ったのだろうし、モノマネを聞く人にとってもまた、YouTubeの動画こそがオリジナルということになる。ここでは、アーカイブによってモノマネの対象も「今」や「旬の人」であることから離脱している。)
(とはいえ、アーカイブから発したモノマネが、それを聞く人の記憶や経験への参照によって成り立つのではなく、アーカイブへの参照によって成り立つという時、それを聞く観客は、モノマネから「何」を受け取っていることになるのだろうか。ここでモノマネによって再現=表現されるのは――つまりそれぞれの「観客の現在」が受け取るのは――「ミラクルひかるの現在」が、アーカイブされた無数の動画群から笠置シヅ子をチョイスしたということがらであり、そこで彼女が感じた「何か」であろう。おそらくそこでは「似ている」という感覚とはやや違った感覚が問題にされているのではないか。)
アーカイブによって失われるもう一つのものは、司会者、MC、その場をとりしきる人、の価値の低下だと思う。バラエティにおいては「場をまわす人」こそが中心であり権力者であって、その人の力量が質を決定すると言える。しかし、五分程度に切れ切れにされた動画を、たとえば「ミラクルひかるのネタ」を追いかけて次々に観ている時、それがどんな企画で、誰の冠番組であるかということは関係なくなる。重要なのは、個々のネタでありエレメントでありコンテンツあって、それをつないで流れや場をつくるのは、わたしの気分であり、YouTubeのレコメンド機能であり、検索機能であろう。
要するにぼくは、バラエティを観ながら、バラエティの最も重要なところ、命綱のような部分を観ていないことになる。それは、バラエティの重要な二つの要素(今性とここ性への束縛?)が嫌だから、バラエティを、テレビではなくわざわざYouTubeで観ている、ということのなだろうか。
(テレビで観る限りバラエティには「終わり」があり、一定時間経過することでテレビの前から離れられるのだけど、五分程度の切れ切れの動画を次々と見る場合、自分の意思で「終わり」を創り出さなければならず、知らぬ間に一日が過ぎてしまうということがしばしば起きる。)