山田正亮展の図録を読んでいて、沢山遼が書いている「ミトニミックな交換」というのにすごく納得してしまった。静物画で、壺の口のような「空(虚)」」の部分と、例えばレモンのような「実」の部分とが、その形態的類似性によって交換可能になる。そこで虚と実とが交換可能になることによって、物と空間の差異が無くなる。いや、差異がなくなるのではなく、あくまで、物と空間とが交換されたり反転されたりするようになる、ということだろう。形態や色彩の類似によって、ある領域や場や意味が弁証法的に交換可能になる。
山田正亮のすべての仕事は、そういわれれば「ミトニミックな交換」あるいは「ミトニミックな反転」によって貫かれていて、その複雑化の様々なバリエーションと考えることができるなあ、と。山田正亮にとって「絵画」というメディウムが絶対的だったのは、虚と実のミメトニックな交換が平面でのみ可能だから、という理由なのではないか。
(でもまあ、沢山遼が書いている「ミトニミックな交換」と、中林和雄が書いている「表面色と面色の絡み合い」で、形式主義的な抽象絵画のやっていることがほとんど説明できてしまうのではないかという気がしてきて、落ち込んでいる。)