2025-10-24

⚫︎占星術殺人事件』(島田荘司)。実ははじめての島田荘司。いわずとしれた(「いわずとしれた」という慣用句を使うのは生まれて初めてかもしれない)島田荘司のデビュー作にして、代表作、で、超有名作。この作品がなければ新本格はなかったかもしれないし、新本格がなかったらメフィスト賞系もなかったかもしれない、と言われる。とはいえ、1981年に発表された40年以上前の小説で色々「古い」と感じる部分があり(それは仕方がない)、かつ、大きな影響力を持った作品であるがゆえに、この作品に影響を受けた作品の方を、先に、多く、読んでしまっているわけで、今、これを読んで発表当時にあったであろう「驚き」と同等のものを感じるのは難しいだろう。

(以下、決定的なネタバレは避けますが、九割くらいはネタバレしてしまっていると思うので、つまり実質的にはネタバレしているので、注意してください。)

正直、前半はけっこう退屈に感じられてしまった。この小説は、1979年を現在時として、そこからさらに四十年前に起きた未解決事件について検討するという話なのだが、最初に、事件の発端となる(最初に殺害された)画家の手記が示され、ついで、四十年前の事件について検討する「探偵」と「助手」との対話が続く(「助手」が「探偵」に事件について説明しつつ、二人で検討する)。これだけで小説のほぼ半分近くを占めるのだが、最初の手記がいわば「このゲームの前提条件の提示」であり、ついで探偵たちの対話が「状況説明」にあたる。つまり、小説の約半分近く、延々と「このゲームのチュートリアル」に近いような状況説明を読んでいるような感じだった。どこまで行ってもなかなかプレイが始まらない感じ。

事前知識として、最初の「手記」の部分で挫折する人が多いと聞いていたので(読書系Vtuberの動画で)、その部分はとりあえず「飲み込む」感じで読もうと思って読み始めて、続いて対話に入るが、確かに「手記」よりは「対話」なので読みやすくて、するすると読めるようになるが、読みやすいからといってぐいぐい引き込まれるというわけではない。いや、ここのところをきちんと押さえておかないと先に進めませんよ、大事なところだから何度も確認しますよ、ここテストに出ますよ、これを適当に流したら後で面白みが半減ですよ、という事柄が丁寧に、親切に押さえられているのはわかる。ただ、この部分が小説としての、あるいはフィクションとしての魅力にどうしても欠けるように感じてしまった。

前半部分には、たんに事件の状況説明だけでなく、猟奇的・オカルト的な衒学趣味のテイストが散りばめられているのだが、この点にかんしては、もっとエグくて濃いものが現在では普通にあるので、(おそらく発表当時は魅惑を放っていたであろう)この「テイスト」の部分がむしろ希薄とさえ感じられてしまったというのが、退屈を感じた主な原因かもしれない。おそらく「テイスト」の部分の新鮮さや衝撃の感覚が、今から四十年以上前の1981年と現在とでは大きく違ってしまっているだろう。

小説の中頃にもう一つの「手記」が挟まれて(これが一つの大きなサプライズなのだが)、その後、二つ目の手記をめぐってようやく登場人物たちが動き出す。威圧的な警察官が登場し、彼に刺激されるような(強いられるような)形で探偵と助手が京都に向かう。しかしこの京都での「捜査」も、事件の構造的な部分の解明に食い込んでいっているような感触はほぼなくて、周縁をなぞるように旋回していているなあという感じで、ただ徒労感と停滞感が漂うばかりだ。だが、ここまでくると、この「停滞感」こそがこの小説の最大の特徴であり魅力なのではないかと思えるようになった。

(ここで、1982年に出版された村上春樹羊をめぐる冒険』との類似を感じた。これらの作品はどちらも「物語の展開」というものがなく、ただ「停滞」と事態の「急進(急変)」とが繰り返される。つまり「段取り」や「過程」の描出がほどんどなく、延々つづく「停滞」の後にいきなりドカンと「進展・解決(あるいは崩壊)」か訪れるという点で共通しているように思う。常識的な、通常の意味においては、上手とはいえない物語の構築の仕方だと言えるだろう。そしてこの特徴は、83年の中上健次『地の果て 至上の時』において、本格的に意識的に採用される。展開せずに、停滞と急進を繰り返す物語構造は、80年代初めの日本語の小説の一つのトレンドとしてあるのかもしれない。)

⚫︎占星術殺人事件』においては、猟奇的・オカルト的な衒学の部分はいわば、犯行の目的を隠すための「目眩し(本編では、構造的な「柱」ではなく、柱に掘られた「模様」と呼ばれる)」であり、実行された実質的なトリックは数学的とでもいうべき合理性に基づいたもので、犯行の動機・目的も、極めて常識的な怨恨と感情の問題からきているものだった。ただ、この作品の面白さは、「目眩し(フィクション)」と「実質(現実)」との関係のあり方にあるように思う。それが、現実=主で、目眩し(虚構)=従というたんじゅんな主従関係ではないということだ。つまり、「六体の女性の遺体を切り刻んで、そのパーツを繋ぎ合わせて一体の完璧な女性像を作りだす(6を切り刻むことで「+1」を作り出す)」というオカルト=フィクション的な目的と、「一人の女性を生きたままで社会から消失させるために、切り刻まれて再構成された六体の遺体が必要だった(切り刻んで再構成した6によって「-1」を作り出す)」という実質・実行的=現実的な目的」とが、きれいな(トポロジー的、と言っていいか分からないが)反転的関係を形作っている。このような、目眩し(フィクション)と実質(現実)とが、主従関係ではなく同等の地位を持って反転的に重なり合うという「犯行」の(「作品」の)二重構造(階層的メタ構造とは異なる形での世界の多重構造)こそが、この後の多くのミステリ作品に影響を与えたのではないか。

⚫︎明治村にいる「明治の警官役の男」が死んだはずの画家がメタモルフォーゼした姿であり、そこに置かれた女性形のマネキンがアゾート=六体の遺体の合成像ではないかという、京都での捜査によって導かれたエピソードは、現実的にはたんなる狂人の妄想であり、事件の本質からすると見当はずれの「間違った推測」でしかなかったわけだが、この物語の「虚構の側(大勢の素人探偵たちの想像力)の論理」からすると妙に説得力のある、芯を喰った憶測であるように感じられる。つまりこの物語には「現実的な事件の解決」では解決し切れない二重のリアリティがはしっている。