⚫︎ずいぶん昔、若い頃に、『彼自身によるロラン・バルト』という本を読んでいて、とても印象的な一文があり、それを今でもはっきりと覚えている。ただ、本を手放して、長い時間が経ち、自分が「はっきり覚えている」と思っているこの文の出典が、本当に『彼自身によるロラン・バルト』だったのか自信がなくなってきた。いかにもバルトが書きそうな文なので、バルトが出典であることは間違いないとは思っているが、もしかすると別の本かもしれず、あるいは、本当は違うニュアンスの文だったものを、記憶の捏造により曲解している可能性もあるかもしれない、などと弱気になる。ぼくにとっては「確かに」と腑に落ちる文だが、そもそも違う意味だったのかもしれない。
同じ本の新訳が『ロラン・バルトによるロラン・バルト』というタイトルで出ているのを最近知り、図書館で借りて(一回借りて、読まないまま返却して、また借りた)パラパラみていて、記憶にある文がほぼそのまま書かれているのを確認した。
《エクリチュールとは、狭い空間のなかでどうにか体の向きを変えるという、そんな〈遊び〉である。》
もう一つ、覚えていた文(前の翻訳では「ステレオタイプ」ではなく「紋切り型」、「疲れ」ではなく「疲労」と訳されていたような気がするが、間違っているかもしれない)。
《ステレオタイプは、〈疲れ〉という観点から判断することができる。ステレオタイプとは、わたしを疲れさせ〈はじめる〉ものだ。》
⚫︎かつては、これらの文に、「確かに」と深く腑に落ちる感じがあったが、今では、基本的に合意ではあるが、そこまで深い言葉ということでもないかなあ、と思う。