2026/06/12

⚫︎以下に引用するのは、昔ぼくが書いた「部屋と情報と私――『このあいだ東京でね』(青木淳悟)論」の冒頭部分。今はもうなくなってしまった「國文學 解釈と教材の研究」(学燈社)という雑誌の2009年6月臨時増刊号に掲載されて、その後『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)という本に収録された。

(追記。「國文學」は基本的にアカデミックな雑誌だが、「臨時増刊号」として大江健三郎や村上春樹、蓮實重彦など現代の書き手を特集として取り上げたりもしていた。ぼくが書いたこの号は「小説はどこにいくのか 2009」という特集だった。印象に残っているのは、雑誌が出た後に編集者の方から便箋何枚もの手書きの手紙をいただいて、そこには「御玉筆誠にありがとうございます」とか書かれていて、おお、伝統ある雑誌はさすがだな、と思ったことだ。この雑誌は2009年で終刊しているから、これは雑誌の最末期の号だ。)

7月に『青木淳悟初期作品コレクション』(書肆侃侃房)が出るそうなので、7月になったらnoteで全文公開しようと思う。

部屋と情報と私――「このあいだ東京でね」(青木淳悟)論

 

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「このあいだ東京でね」というタイトルのもとに束ねられた文章の連なりを、とりあえずはなんとか最後まで追ってゆき、唐突に吹きつける風に押し出されるように作品の外へと出た読者は、頭のなかに残っている、明確な像を結ばない雑然とした印象の明滅、手の中にある、触れようと思うと逃れ去ってしまう空を切る手触り感に戸惑いつつも、何か驚くべきものを読んだ、何か、今までになかった経験をしたと、感じているのではないだろうか。

いや、この作家の熱心な読者なら、「このあいだ東京でね」がはっきりと「ふるさと以外のことは知らない」の延長線上にある小説であることを感じるだろうし、その達成の上に築かれた、いわば応用編とでも言える小説であることも感じるだろう。「ふるさと以外……」が家をまるごと記述しようとする小説であるとすれば、「このあいだ……」は、それを都市まるごとにまで拡大しようとした、と。しかし、この二作の間には明確な断絶、あるいは飛躍があるように思われる。家やその家族は、個々人においてそれぞれに異なるとはいえ、誰にでもその固有の記憶を強く喚起するものである。「ふるさと以外……」に描かれる家や家族が、フィクションとして構成されたものだとはいえ、作家個人の現実的な経験や記憶(あるいは、物質として存在する「実家」)にその素材が求められているであろうことは間違いがないように思われる。つまり「ふるさと以外……」では、少なくとも「入口」としては、それを読む読者にとっても、それを書く作家にとっても、ある実質をもつ固有の記憶が手がかりとなり得る。作品―作家―読者は、実家の記憶という共有可能な場をあらかじめもっている。

対して、「このあいだ……」において東京という都市の記述を組み立てるための手がかりとして呼び出されるのは、《ある程度人生に見通しを立て》て《東京都内に新たな住居を探し求め》ている《複数の人間》だというのだ。この小説において「東京」という都市は、都内にマンションを購入しようという動機をもつ(当然、そのような欲望を持つことが妥当であるような権利をもつ)人たちの、その関心のあり様という限定的な興味によって浮かび上がってくるものだ。だが、すべての読者が、そのような関心や権利をもつわけではない。あるいは、この関心は作家自身にとってさえリアルなものではなく、この小説を組み立てるために「借りてきた」仮の関心でしかないように思われる。「マンションを買いたい」という思いはきわめてありふれたものではあるが、だからといって、それを現実的に考える権利が誰にでもあるというわけではない。

とはいえ、物語とはそもそもそのようなものだともいえる。ある物語の主人公Aの境遇や欲望や関心と、作家や読者のそれとがあらかじめ一致していなければ作家や読者が作品世界との接点を見つけられないのだとしたら、フィクションなど成り立たなくなる。通常、作家は主人公Aの行動や考え、彼を取り巻く環境などを描き込むことを通して、読者はそれを読み込んでゆくことを通して、作品との接点をみつけてゆくことになろう。だが「このあいだ……」には、作家にとっても読者にとっても、そこに寄り添ってゆくべき明確な主人公や境遇などは存在しない。この小説の最初にあるのは、「そろそろ私も都内にマンションを購入したい(そういう希望をもってもよい頃なのではないか)」という、誰のものと特定されるわけではない、匿名の、ごくありふれた、一般的な思いであり、そのような欲望をもつであろう、未だ明確に特定されてもいないし、その輪郭の素描すらされていない、茫洋とした、しかも複数の「誰か」たちでしかないのだ。この小説の書き出しを、改めてみよう。

 

ある程度人生に見通しを立てた複数の人間が東京都内に新たな住居を探し求めていた。都心部だとか、またそれに近接した地域に住まいを持ちたいと希望している。

 

一見、ごく普通でまっとうにもみえるこの冒頭の二つの文の連なりは、しかしのっけからいきなりこの作家特有の遠近法の歪みが仕込まれている。「Xが住居を探していた。都心部を希望している。」という明確な言い切りは、Xの部分に、固有名や「ある女」などを代入すれば、ごく普通に読まれ得る主人公や作中人物を登場させる書き出しの文章であろう。しかしそのXの部分を《ある程度人生に見通しを立てた複数の人間》とすることで、明解な言い切りの調子をそのままにして、しかし意味の上ではとたんに輪郭がぼやけてしまう。まるで《ある程度人生に見通しを立てた複数の人間》という固有名をもった主人公(集団)がここで登場したかのようですらある。しかしそれは、例えば高橋源一郎が書く「中島みゆきソングブック」や「すばらしい日本の戦争」のような、意味としては空虚なほとんど「X」や「Y」とかわることのない空項としての固有名とはことなる。それはあくまで字義通りの、輪郭を欠き、具体的な位置を欠いた、匿名的一般的な存在である。それは特定の集団ではなくバラバラにある複数存在である。このような像のブレによってこの《複数の人間》は、文のなかで主語の位置にあるにもかかわらず、その構造が強いる役割を脱臼されるかのようだ。