2026/07/06

⚫︎ぼくの「批評」についての考え方は、完全に自分勝手なもので、一般的に考えられているものとはかなり違うし、多くの賛同を得られるとも思っていない。「こうであるべきだ」と他者に対して強く主張しようとも思わない。しかし、ぼくとしては(ぼくにとっては)、かなりはっきりと、こうである、と考えている。

まず一つ目に、批評は、非アカデミズム的で領域横断的(つまり、非専門家的)になされる「作品(あるいは作家)」についての分析・考察全般を指す。これは、ある特定の文脈にあるもののみを「批評」と呼ぼうとする、「批評」という語に歴史的、意味的に大きな負荷を負わせようとする傾向、「批評」を特権視しようとする傾向に対する否定でもある。批評は、いつでも、どこでも、誰にでも可能である。そしてそれには、こうでなければならないという事前の形式的な縛りはなく、スタイルが完全にフリーである。

もう一つは逆に「批評」を限定するもので、「批評」は、未だ評価が定まっていないものについて(つまり、あり得るが未だ確定しない未来について)積極的に評価するものだと考える。それは、現段階では海のものとも山のものともわからない、(肯定的にしろ、否定的にしろ)評価に値するのか否か、論評に値するのか否かにかんしてさえコンセンサスの成立していない対象について、「これは検討に値するのだ」だとする主張を含むものだ。

たとえば村上春樹の作品については、それを肯定しようが否定しようが、「それについて語ることに意味がある(「それ」は取り上げるに値する)」という前提が社会的に出来上がってしまっている。あるいは、ある特定の社会問題や政治的な主張を含むものは、その是非はともかく、その時点で「それについて語る意味がある」ことになってしまう。それについて語ることの根拠が(実際に語るよりも前に)保証されてしまっている。そういうものについてしか語らないものは、ぼくは批評とは考えない。それについて語ることに意味があるのかないのか、実際に語ってみなければわからない対象について、「これについて語ることに意味がある」と、実際に語ることを通して主張するものが(ぼくにとっての)「批評」であり、だから、すでに有名であるヒットコンテンツや、重要な賞の受賞作品、あるいは歴史的な評価のある作家や作品について、「(「視点」はさまざまにあり得るが)今までになかった新しい視点から面白いことを言う」というようなことしかしないものは(ぼくにとっては)批評ではない。あるいは、アカデミズムによって認知された「(目新しい)理論」を用いて作品を解析する、というのものも「批評」とは思えない。

(「批評じゃないから意味がない」と言っているのではない。そういうものには、当然だがそれぞれにちゃんと意味がある。ただ、それは「批評じゃない」と言っているだけ。)

(「批評」こそが偉いのだ、と言っているのでもない。むしろ「批評」など偉くもなんともないと思う。ただ、偉くはないが、そういうものが存在していて欲しいと強く願う。偉くもないし、力もないからこそ、重要かつ貴重なのだと考える。)

(村上春樹に対しても、社会的、政治的な問題を主題とした作品に対しても、「それについて語ることに意味がある」ということを前提としないままで考える、ということはできるはずだ。「そういうふうに考える」ことが「芸術」に対してあるべき態度だ、とぼくは考える。)

これは以前にも書いたことだと思うが、だから批評は「(競馬の予想のような)未来予測」と同じく「間違える」ことができるという胡散臭さを持つ(間違いに対して開かれている)。つまりそれは、現時点において根拠を示すことのできない、徴候、予知、予測、直感を含むものなのだが、それについて未来において検証可能であり、「結局は解釈の問題でどうとでも言いくるめることができる」ということにはならない。間違えることが「できる」(もっと言えば、積極的に間違いにいくことができる)というのが、間違えることが許されない「専門家(研究)」に対する批評の優位だと考える。そしてこれこそが重要なのだが、「間違える」ことによって(間違えることを通して)、あり得たかもしれない「別の未来」を示すことができる。

それともう一つ重要なのは、批評においては直感的で根拠の薄弱な「印象批評」が許されるという点だ。もちろん、批評においても精緻な分析やかっちりした論証は重要だ。直感では決して到達できない、論理と検証を積み上げることによって初めて到達できる地点がある。しかし他方で、それと同じくらいに、根拠が不十分なままざっくりと語られる「印象批評」が許されることが重要なのだ。結局人は、すべてを言語化できるわけではないし、意識化できるわけでもない。直感を根拠にしなければ(あるいは、無根拠なまま直感に頼らなければ)語れないものがあり、そこに無理やりにそれらしい根拠を立てることで失われてしまうものがある。そうなのだから、直感を根拠に論を立てることができるという領域があることが、いかに貴重なことであるのか(このことは「間違えることができる」ということと密接に繋がっている)。これもまた、研究にはできない(というか、許されない)ことだろう。

批評の立場は、解説者でも鑑定人でもなく予想屋であり、予測はするが保証はしない。故にどこまでも胡散臭く、権威となってはならない。

(追記。「芥川賞をどの作品が受賞するのか」といった、そういうレベルでの「予想」ではない、念の為。芥川賞について語ることはすでに社会的に「意味がある」こととして前提とされてしまっているのだから。)

(さらに追記。ボリス・グロイスは「新しさについて」の中で2種類の「新しさ」について書いている。一つ目は、新型の自動車はそれ以前とは違った新しいデザインを持つ、というような、過去との差異によって「新しい」という新しさ。二つ目は、キリストはその存在の仕方がまったく新しかったからこそ、当時の普通の人々と区別がつかなかった、というようなこと。「新しさ」のあり方そのものが「新しい」場合、その「新しさ」のありようをまだ誰も知らないのだから、そもそもそれが「新しい」ということを認識することそのものが困難になる。その「新しさ」を測るための基準が未だないくらいの「新しさ」。「差異なき差異」と呼ばれるこのような「新しさ」こそが真の新しさである、と。批評が「予想屋」的であるというのは、まだ誰もその新しさについて明確に言語化できず、それどころか、それが本当に「新しさ」を持つのかどうかも定かでない段階で、その徴候を嗅ぎ取って、舌足らずで不十分な言い方であったとしても、とにかくこれは「新しい」のだと宣言するところにその重要な役割があるのだ、ということだ。ゆえに「批評」は間違い得るのだし、それどころかしばしば間違えるのだ。「批評」とは、おっちょこちょいの先走りである。)