2026/07/19

⚫︎ここのところ、寝る前にぼんやり観ていたアニメ『スーパーカブ』が、最後までたどり着いた。とても良かった。たとえて言えば、『ゆるキャン△』+『あの夏、いちばん静かな海』(北野武)という感じか。

主人公の女子高生は、親がなく、アパートに一人で住んでいる。彼女自身のモノローグによれば、友達もなく、将来の夢もなく、お金もなく、趣味もない。彼女の存在を端的に表現しているのが、彼女がいつも学校へ持っていく弁当だろう。タッパーにご飯だけを詰めて、それと、中華丼やカレー、牛丼など、買い置きしてあるレトルトパックを一袋だけ持っていく。彼女は学校で、冷えたご飯の上に冷たいままのレトルト食品をかけて、それを食べる。これは、彼女の貧しさと孤独だけでなく、意志の強さや矜持まで表している。彼女は、教室で、たった一人で、臆することなく堂々とそれを食べている。彼女は貧しく、孤独だが、そのことを恥じてはいない(クラスメイトは、いじめとまでは言えない軽い「貧乏いじり」を彼女にするが、彼女は軽くあしらい取り合わない。)。そんな彼女が、いわくつきのスーパーカブを一万円で手に入れる。坂道を自転車で通学する彼女はスクーターがあれば便利だとバイク屋に行くがとても手が出る値段ではない。そこにバイク屋の親父が、人を三人死なせているというスーパーカブを持ち出してくる(ここからホラーが始まるわけではない)。

免許を持っていなかった彼女がやることはまず免許を取ることなのだが、自分のカブで最初にやるのは、エンジンのかけ方のコツを習うことだ。それが彼女とカブとの最初の「かかわり」だ。次に、深夜、今まで行ったことのなかったコンビニにカブに乗っていくのだが、帰りにエンジンがかからなくなる。彼女にはその原因もわからなくて途方にくれる。取扱説明書を調べ原因がガス欠だと知り、予備燃料により対処できることを知る。そして、初めてのガソリンスタンドでの給油。そのようにして彼女は、他者としてのカブとの関係を少しずつ築いていき、道具としてのカブはそれに応えて彼女の行動・活動の範囲を少しずつ広げていく。この作品はその様をひとつひとつ丁寧に、そして大仰になることなく抑制した調子で描いていく。

一つの「道具」が一人の人間の生活に質的な変化をもたらす。それは、(1)道具の機能が行動の可能性を広げるということでもあるし、(2)その道具とのかかわり(メンテナンスの必要性や装備の拡張可能性)が、持ち主の行動を変えるということでもある。そして、(3)一つの道具は、それと同種の道具のユーザーとの関係を生み出しもする。この三つの側面から起こる彼女の生活の変化が、淡々と描かれる。生活・行動の変化は、彼女に価値観の変化をももたらすだろう。

スーパーカブによる三つの側面からの彼女の生活の変化は、外から見れば微々たるものだ。彼女は相変わらず、口数が少なく、クラスに馴染めない、友達の少ない貧乏な女子高生でしかない。しかし内的(質的)には大きな変化が起こる。それ以前の彼女は、自分が何かをできるとは思っていなかった。しかしカブの存在により、自分が能動的に「何かを行う」ことができることを知る。しかしそれは、当初は他者に向かうことはなく、自分の孤独な生活の範囲にとどまる。しかしまた、貴重な愛着の対象としてのカブの存在は、彼女に、貴重な愛着の対象である他者(友人)をもたらすことになる。カブへの関心(愛着)という心の動きが、孤独な彼女に他者への関心(愛着)という心の動きへの回路を開く。孤独を恥じず、地味でおとなしくも誇り高い彼女は、相変わらずクラスに馴染もうとはしない(文化祭に積極的に参加したりしない)が、特定の友人との関係には開かれ、その関係は深められていく。

カブによってもたらされる、(クラスメイトたちとは別種の)特殊な能動性による秘められた自信は、カブによってもたらされた(半ば秘められた)友人との関係によって増幅され、表面上は地味でおとなしいままの彼女を、常識から逸脱した行為にまで至らせる。山梨県北杜市から修学旅行のバスを追いかけて鎌倉までのツーリング。禁じられた秘密の二人乗り。また、雪の積もった山の斜面での危険な走行。客観的に見ればどれも「かわいい逸脱」に過ぎないとはいえ、このような逸脱をもたらす「能動の感覚」の増大は、これ自体として少しばかり危ういものではある。だがそれは、元々独立心が強く誇り高い彼女の矜持を強化させもするだろう。

彼女と友人との関係によって深められた、危うい逸脱性を含んだ能動性の拡張の感覚は、第三の人物によって周囲に対して少しだけ開かれることになる。文化祭の出し物に無関心だった彼女と友人だが、彼女たちの(それまで隠されていた)能動性が用いられることで「文化祭の危機が救われる」という事態が発生するのだ。それによって、文化祭に最も深くコミットしていた第三の人物、およびその家族が、二人の秘められ、閉じられた関係の中に少しばかり介入してくるようになる。

そして最終的には、この第三の人物の心の危機を「救う」ために、二人の(それまでは秘められたものであった)能動性が最大限に発揮されることになる(第三の人物も共に行く、最も「遠く」へのツーリング)。これまではしばしば「危うい逸脱」として現れてきた彼女たちの能動性が、第三の人物の「ため」に使用するという目的を得ることで、ある意味で「建設的」で「社会的(公共的)」なものになる。社会的とは言っても、第三の人物の家族(父と母)に認められる、という程度のことなのだが。そういう意味でこの作品は、「物語」としてはどこまでもささやかなものだ。

(親のいない彼女はもとより、友人もまた親元から離れて暮らしているため、第三の人物が介入するまでこの物語には「家族(親)」という審級は存在しなかった。)

⚫︎大きな波乱や展開はなく、日常的な事柄が抑制的に淡々と描かれること、(男性の登場人物はいるが)「異性」としての男性が存在しない「女の子たちだけの世界」であること、という意味では「日常系」的であるが、秩序からはみだしかねない危うい逸脱性が含まれる「軽い不穏さ」が響いていること、また、登場人物たちの変化(「変化」というより「元々あったものが強く前へ出るようになる」という感じだろうか)が描かれること、という意味では日常系的ではない。とても不思議な佇まいをしている。

何より、道具とのかかわりが生活とその感覚を変えていくさまが、具体的な過程として描かれているところが良いと思った。