⚫︎『入居条件 : 隣に住んでいる友人と必ず仲良くしてください』(寝舟はやせ)。いわゆる「怪談」的なものの面白さやリアリティは、その理不尽さや非合理性にあり、「謎」そのものの質にあると思う。しかし、ホラーが長編化すると、その呪いや理不尽の由来を探っていくという方向(謎解き物語)に向かってしまうことが多い。そしてその由来は、大抵陳腐な紋切り型へと帰着する(それは、パラノイアックな狂気でなければ、差別的な心性を含む保守的ナショナリズムに通じるものであり、その意味では、理不尽や呪いがどのような経路=由来を経て解決あるいは破局に至るのかは常に興味深いものであるし、丁寧に分析されるべきものでもある)。この小説の面白さは、怪異や呪いの由来を一切問わないし、追求しないというところにあると思う。
あらゆる「謎」は、謎のまま放置される。まったく何も解決しない。問題は、慎重に振る舞うことで実害を避けながら、怪異との関係を維持することだ。霊能者も登場するが、彼は問題を解決しようとは初めから思っていなくて、実害を避けるための注意点のようなものを示唆するだけだ。怪異と「友人」であることを維持するためには、ある程度相手を理解しようと努めなければならないが、しかしそのに一種の「理解」が芽生えたとしても、心を許す(気を抜く・共感する)ことはできない。主人公が常に危機的な状態と背中合わせにあることは、ある程度「隣人(怪異)」に馴染んだとしても変わらない。常に慎重に行動し、しかし、実害にまでいらない「目障り」や「不快」程度の不可解は鷹揚に、大雑把にスルーする必要もある。
主人公は、隣室に住む怪異と友人になることを条件に、住処と一定の報酬を提供される。しかし、彼が住むことになるマンションはいわく付きで、そこに住む怪異は、友人であることを要求される隣人だけではない。主人公は、さまざまなあり方を持つ怪異たちと、それぞれの相手に応じて各々、適切な距離を測らなければならなくなる。たとえば、彼の住む部屋にも、無害だが無視することはできない怪異が存在し、その怪異にも一定の配慮をする必要がある(そして時にはその怪異に助けられたりもする)。怪異たちは、それぞれに異なる存在容態があるのだが、ただ「そのようにある」というだけで、なぜ「そのようにある」のかは問われないし、そもそもそれを問うことは人の能力を超えているという認識が、登場人物たち(人間たちの側)に共有されている。
怪異=隣人=友人は、なぜか、ベランダの間仕切りの板越しに主人公に怪談を語る(これにより、長編+オムニバスという形式になる)。怪異の語る怪談は、人間の目線からの(人間が語るような)怪談だ。主人公は、寒くてもベランダに出て話を聞く義務がある。怪異は「怖かったか」と感想を要求し、主人公は(慎重に配慮しつつ)感想を述べる。主人公は怪異たちに囲まれて暮らしながらも、友人・隣人である怪異の話す怪談を「作り話」だと感じている。つまり、リアル怪異が嘘の怪談を語るのだ。しかしなぜ、どのような目的で怪異が「虚構である怪談(しかも人間目線の)」を語りたがるのかはわからない。マンションの怪異たちがなぜ、そこに、そのようにあるのかという経緯(由来)は問われないとしても、主人公と怪異たちとの関係の変化は描かれる。そこに何かしらのコミュニケーションのようなものは成立しているようだ、しかし、かといって心を許す(気を抜く、分かった気になる、共感する)ことはできない。
謎は何一つ解決しないし、そもそも「なぜ」と問われることがない。しかし、この物語で解決することが一つだけあって、それが主人公と母との関係だ。主人公の母親はいわゆる毒親であり、彼は今もなお心身ともに毒親に支配されている。彼はそこから必死に逃れようとしているが、毒親の方が彼を離さない。この、泥沼のような関係が、怪異と関係する中で「解決」される。主人公が怪異たちにそれを頼んだわけではないし、怪異たちが「主人公のため」にそうしたわけでもない。偶然の巡り合わせで、そうなる。母との関係が解決され、古い友人との関係が復活する。この物語に起こる展開・進展はそれだけだろう。主人公は怪異たちに囲まれ、怪異たちとの(慎重に距離を測った)関係を強いられるという環境にあるが、物語の進展は(謎解きではなく)「人間」の側の関係で起こる。
(追記。いかにも謎めいたものが謎のままであるというだけでなく、たとえば、怪異がグミを食べるとか、怪異から餅をプレゼントされるとか、そういう細部が、ただテクスチャーとしてのみあって、なんの意味・因果にもつながらない、というところが良い。)