朝はまるで台風一過のような天気。べったり青い空、つよい光り。それも長くは続かず曇り空。
図書館をぶらつく。『神代辰己オリジナルシナリオ集』、武田百合子『ことばの食卓』、武田花『季節のしっぽ』を借りてくる。
ぼくは武田花の写真はとても素晴らしいと思う。古い東京の風景や、猫を撮ったりするので、ノスタルジックな癒し系だと思っている人が多いかもしれないけど、こんなに、人間と無縁の、人間に対して無関心な『物』を撮影する人は他にちょっと知らない。世界の果ての風景、というのか。いや、こういう言い方は、人間が居る場所こそ世界の中心だというおごった考えからくるもので、間違っているか。人間がいようがいまいが関係なく、それ自身として存在している『もの』や『猫』。ここに写っている猫や犬は、感情移入できる可愛さではなくて、あからさまに『別の生き物』であることによって人を魅了する。しばしばカメラ目線を送ってくるこれらの猫や犬を『可愛い』と言ってしまうとのだしたら、この眼差しを受けてしまったことの動揺をどう処理したらいいのか分らずに、とりあえず可愛いということにして、自分に偽りの納得をさせているだけだと思う。
というか、人間だって本当は猫と同じくらい訳分らないもんだ、と、武田百合子の本の冒頭に置かれた『枇杷』というごく短いエッセイを読んで思った。別にここで武田百合子は夫のことを理解している訳でも何でもなくて、ただ枇杷を喰らう年老いた夫を、まるで猫を見るのと同じような視線で見ているだけだ。『こういう味のものが、丁度いま食べたかったんだ。それが何だかわからなくて、うろうろと落ちつかなかった。枇杷だったんだなあ』と言う夫と、夫が二個食べ終わるまでの間に、それを八個食べる『私』。2人の別々の存在が、向い合せで枇杷を食べている。ただ、『私』は夫を見ているし、おそらく夫も『私』を見ているのだろう。お互いが何を考え、何を感じているか理解し合うなんてことはどうでもいいことで、ただ、2人が向い合せでいて、その間には枇杷があり、それを食べるという行為がある、ということ。
おそらく人生のなかで特権的な瞬間であったろうこういう出来事を、書き込み、造り込んだ小説などではなく、あっさりと書かれた断片的なエッセイとしてぱっと放り出してしまう、というところが、武田百合子的な贅沢さというべきか。というか、こういう風に書かれるしかない出来事というのがある、ということなのか。つまらない小説のつまらない一場面なんかにしてしまったら、台無しになってしまう。
松浦寿輝の小説が載っていたので、久しぶりで『群像』を買う。(そういえば、前に買ったときも、松浦寿輝の小説『幽』が目当てだった。)同じ号に、村上龍の対談が載っていて、読んで、村上龍ってこういう人なんだなあ、と、うんざりする。でも、『共生虫』はちょっと読んでみようかなあ、とか思ってしまう。つまりは、まんまと、メディアと資本主義の策略に引っ掛かってしまったということか。